筆 者はこれまで、キェルケゴール・北欧神話・ウプサラ学派の価値ニヒリスムの三者を主要な研究対象としてきたが、それを基盤としてさらに筆者の関心は、現代 世界の抱える緊急の思想的課題 - 宗教・医療・環境の問題 - を解決する方向を、北欧思想圏の哲学的思惟を通して探るという目論見へ進んでいった。そ して、極めて貧しい試論には留まるが、それぞれの対象・主題について研究成果を発表することができた。しかし、現在筆者の願望は、従来の考察を一層ラディ カルに深めるとともに、そこからさらに浮かび上がってくる北欧固有の諸問題に対して総合的な検討を加え、その成果を体系的に「北欧学」という新たな学問に 結実させたいという方向に向かっている。筆者に残された時間は多くはないが、それへの積極的な挑戦が、ライフワークの主たる部分を占めることになる。
この場では、筆者がこれまで上梓した著作と翻訳を、研究業績として紹介すると同時に、続いて筆者がそれぞれの機会に発表してきた比較的短い論考を用いて、 必ずしも全体が体系的に組織されているわけではないが、現在筆者の念頭にあるかぎりでの「北欧学」なるものの構想内容と、想定される具体的な主題につい て、述べてみたいと思う。

2009/02/28

北欧学の主題-[Ⅱ]北欧環境思想の視座ー[北欧神話」から「ディープ・エコロジー」へ

  [Ⅰ]北欧と環境問題 

  「北欧(諸国)」(Norden)とは一般にデンマーク(Danmark,Denmark)・ノルウェー(Norge,Norway)・スウェーデン(Sverige,Sweden)・アイスランド(Island,Iceland)・フィンランド(Suomi=湖沼の国,Finland=フィン族の国)五カ国に対する総称であり、前四カ国はさらに「スカンディナヴィア」(Scandinavia)とも呼ばれる。一般に福祉大国としても知られる北欧諸国は、森と湖とフィヨルドや氷河・火山に代表される自然美の国々であるが、特にバルト海に直接するスウェーデンは、1970年代から対岸のバルト三国エストニア・ラトビア・リトアニア三共和国やポーランド、旧東ドイツなど社会主義諸国の垂れ流す汚染物質による環境危機の問題に直面してきた。冷戦構造の崩壊とともに沿岸各国の協力体制が整い、この問題に対して徹底した対策が講じられていものの、現在でも北欧諸国では「酸性雨」の問題などを筆頭にさまざまな環境危機が共通の課題として大きく取り上げられている。現代北欧諸国の抱える環境問題については、例えば川名英之著『世界の環境問題 第一巻ドイツと北欧』(緑風出版 2005年)に詳しい紹介がある。
  ただしここでの課題は、現代北欧に存在する現実のラディカルな環境問題を実証的に考察するのではなく、こういった問題に真摯に取り組むための根源的な動機が「神話」という形ですでに北欧人の精神的伝統の深層に存在していたことを指摘し、同時にこの神話的伝統を土壌として、現代の北欧、なかんずくノルウェーに「ディープ・エコロジー」(deep ecology)という現在世界環境思想をリードする先端的な環境哲学乃至環境倫理学が誕生しており、今後この環境問題に切り込むための重大な指標が提示されていることを示唆することである。
 
  [Ⅱ]「ヒュブリス(傲慢)—ネメシス(復讐)—環境危機」ー 現代文明論

  2003年に亡くなった世界的な論理分析哲学者、フィンランドのフォン・ヴリークト(von Wright, Georg Henrik)は、「環境危機−これこそわれわれを脅かす自然の復讐(nemesis)なのだ」(Den ekologiska krisen - detta ar den nemesis naturalis som hotar oss)というテーゼによって、北欧神話を環境哲学乃至倫理学の視点から解読するための示唆を提供している。このことは、「現代のテクノロジカル・ライフスタイル固有のヒュブリス(hybris)は自然からの固有のネメシスによって報復されることになる」とも表現されている。なおフォン・ヴリークトによれば、「進歩発展と結びついた一般的なオプティミズムは、科学とその応用の進歩、換言すればテクノロジーの進歩が、大概は人類に対してプラスに作用するという仮説に基づいている。このような考え方には非常な疑問があり、私見によれぱ間違いでさえある」が、「技術帝国主義」(technical imperialism)という進歩発展の危険な未来像の根底には、キリスト教による自然疎外の理念が存在する、つまり「キリスト教信仰によって西欧諸国のわれわれには、自分たちが被造物の主であるという強烈な直観がある。その結果われわれは自分の目的のために自然を利用する権利が認められているということになった。だが、そうなれば人間と自然との根源的な均衡は廃棄されてしまう。人間は自然から疎外され、もはや自然の一部ではなくなるのである」。こういったキリスト教信仰の抱懐する致命的な誤認を克服して現代の環境破壊の危機を克服する道は、いま一度「自然は従われるべし」(Naturen bor folges)というギリシァ的な自然−人間関係に立ち返って、例えば身体の病のみならず、道徳的堕落・国家の腐敗・社会的不正義なども本質的に「自然への背反」に他ならず、これらはすべて自然を模範として修正されなければならないことを自覚しなければならない、とフォン・ヴリークトは言う。このようなギリシァ的見解は、ルネッサンス時代のイギリスの哲学者フランシス・ベーコン(Bacon, Francis 1561-1626)の「自然は従うことによってあらずんば征服されず」(Natura non vincitur nisi parendo)によって表現されている。これは「自然のコントロール」はあくまで「自然によるコントロール」を無制約的に前提とするということである。しかし、フォン・ヴリークトは「挑戦的ペシミズム」(provokativ pessimism)の立場に立って、研究の進歩・新しい技術・市場経済力の自由な競争を絶対とする「無気力な間違ったオプティミズム」の克服は、現在人類の置かれた状況を冷静に観察して落ち込まざるをえない絶望を体験することなしには不可能であつて、「人間が苦難と試練を通してのみおのれの生き方を変える知恵を獲得できる」ということを真に自覚しうるか否かに、今後の人類の運命がかかっていることを指摘するのである。以上の点については、拙稿「環境哲学序説−G・H・フォン・ヴリークトにおけるヒューマニズムと環境危機」(金子・尾崎編『環境の思想と倫理』、人間の科学社 2005年、第一章)において詳論している。

  [Ⅲ]「北欧神話」の環境論 ー 宇宙創造論と終末論の意味

  しかしこのような「ヒュブリス−ネメシス−環境危機」、そして絶望と苦難を通しての「自然のコントロール」と「自然によるコントロール」との 調和的統一というフォン・ヴリークトの図式に基づく環境哲学の立場が、10世紀前後アイスランド乃至ノルウェーで成立した北欧神話の中に、固有の異教的終末論・没落論の中心概念「ラグナロク」(ragna-rok神々の運命・死)の理念によってすでに先取されており、古代北欧人の神話がすでに極めて現代的な環境哲学・環境倫理学の契機を内包しているという事実は注目されなければならない。

  A)宇宙創造論(cosmogony)に見る精神原理の「ヒュブリス」— 過去
  太古存在した巨大な奈落の深淵「ギンヌンガガプ」(Ginnungagap)の中で霜と熱風がぶつかってできた滴から誕生したのが人間の姿をした最初の生き物、最も原初的な物質的自然原理を象徴する原巨人ユミル(Ymir)である。さらに、それから二代にわたる巨人族の系譜を経て「オージン・ヴィリ・ヴェ」(Odinn.Vili.Ve 霊・意志・聖性)という精神原理としての神々が誕生する。そして、この神々は彼らの曽祖父ユミルを殺害し、その屍体から宇宙を創造する。「ボルの息子たちは巨人ユミルを殺した。彼らはユミルの死体を奈落の口の中に運び、それから大地を作り、その血から海と湖を作った。つまり、肉から大地が、骨から岩が作られ、歯と顎と砕けた骨から石や小石を作った。また彼らは彼の頭蓋骨から天を作った」。
  解説=北欧神話の語る衝撃的な事実の第一は、このように精神現象を司る三柱の神々(アース神族)の父祖が、純粋に物質的な存在原理としての原巨人ユミルであり、したがって「精神」は根源的に「自然」を母体として誕生したということである。これは、巨人族とアース神族、自然と精神とは根底においては一つであり、両者間には本質的にいかなる分裂・乖離も発見しえないという意味である。だが、純粋物質的原理としてのユミルと、純粋精神原理としてのアース神族との血族関係が一挙に破壊される宇宙論的瞬間が訪れる。後者が前者を殺害し、その屍から宇宙を創造する瞬間である。そして、北欧神話における第二の衝撃的な事実としての一種の忌むべき尊属殺人とも言うべきこの行為こそが、北欧神話の次元では、先の「ヒュブリス−ネメシス−環境危機」の図式における「ヒュブリス」の契機を構成していると見ることができるのである。

  B) 終末論(eschatology)−「ラグナロク」表象にみる自然原理の「ネメシス」−未来

 復讐劇の前哨
 ○運命の告知「海から三人の物知りの娘がやってくる。一人の名はウルズ(過去)、もう一人の名はヴェルザンディ(現在)、三人目の名はスクルド(未来)」。
○天変地異「うち続く幾夏かは太陽の光りは暗く、悪天候ばかりとなる。
○道義の退廃「兄弟同士が戦い合い、殺し合うであろう。親戚同士が不義を犯すであろう。この世は血も涙もないものとなり、やがてこの世は没落するであろう。

 復讐劇の開始
  ○破壊者・巨人たちの来襲の決定的場面「スルト(炎の国を支配・警護する大巨人)は南から枝の破滅(火)をもって攻め寄せ、戦さの神々の剣からは太陽が煌く。岩は崩れ落ち、女巨人は倒れ、人々は冥府への道を辿り、天は裂ける」。
  ○神々と巨人の死闘「オージンが狼(巨人族の象徴的存在)に戦いを挑み、スルトを相手にまわすとき、そこで倒れるであろう」。

  復讐劇の完成 
  ○劫火に包まれて崩壊する宇宙「太陽は暗く、大地は海に沈み、煌く星は天から落ちる。煙と火は猛威を振るい、火炎は天をなめる」。              
  解説=三柱のアース神による父祖ユミルの殺害と天地創造という原罪的行為によって表現される「ヒュブリス」、それに対して巨人の娘、運命の乙女の来訪を通して、神々に彼女たちへの無条件的服従を要請するのが「ネメシス」の最初の具体的内容であり、いわば復讐劇の第一幕の舞台構成である。しかも北欧神話の構造の上では、これらは過去の出来事として述べられているのに対し、憎悪・虚言・永劫の死を象徴する三種の最強の悪魔的巨人(フェンリル狼・ミズガルズ蛇・ヘルFenrisulfr・Midgardsormr Hel) が他のさまざまな悪の力を引き連れて神々の国に来襲し、彼らとの間に激闘を開始することをもって復讐劇第二幕が斬って落とされる。だが、これによって巨人族のアース神族に対する逆襲、ネメシスが成功するわけではない。このラグナロクの世界最終戦争においては、火に象徴される善悪双方の原理を担うスルトが、神族・巨人族・人類すべてを包括する宇宙全体をその火炎によって焼き尽くすからである。一切が焦土と化したこのラグナロクの情景において第二幕は閉じられる。だが、スルトの放つ破滅の火は、本質的には「浄罪火」であって、そこにはこの世界炎上によつて神々と巨人たち、人間の罪と穢れは清められ、彼らの間に、つまり精神原理と自然原理との間に平和と和解の新たな世界・宇宙が開かれるという再生への契機が包摂されており、北欧神話において新たに第三幕として展開されるのはこの世界復活の場面である。スルトの憤怒の火炎を、そして現代世界のラグナロクをいかにして防御しうるか。それがまさにディープ・エコロジー最大の課題なのである。
  以上の点については以下のものを参照されたい、拙著『ディープ・エコロジーの原郷 ノルウェーの環境思想』(東海大学出版会 2006年)、拙論「北欧神話・世界没落論の意味するもの」『神話と現代』(風間書房 1997年、第三章)、拙論「北欧神話から北欧学へ」『ユリイカ』(青土社2007年10号)。

  [Ⅲ]「ビオソフィー ー エコソフィー ー エコ・フィロソフィー」
      ー現代ノルウェーにおける「ディープ・エコロジー」の視点

  実現不可能な「神秘主義」にすぎないといった批判を典型として、さまざまな攻撃にすらさらされながらも、現代世界環境思想をリードする「ディープ・エコロジー」の理念は、「シャロウ・エコロジー」 (shallow ecology)の理念に対立して提出されたものであり、後者が現在の文明や社会の存立を前提とする人間中心主義のエコロジー運動を意味し、特に先進国の人々の健康と豊かさの向上のために環境保護を主張する立場であるのに対して、前者は現代の社会システムと文明それ自体の変革を要求し、人間の利益とは関係のない自然的生命の固有価値を認め、環境のための環境保護を支持する立場である。そして一般にディープ・エコロジーはアメリカ・オーストラリア等英語圏の環境思想と考えられているが、その歴史的伝統乃至ルーツが北欧ノルウェーにあることは以外に知られていない。

  A)「ビオソフィー」(biosofi)
このような二つの異なったエコロジーの概念を提出し、それによって現代を代表する巨大な環境運動のうねりを形成したのは、先のフォン・ヴリークト同様論理分析哲学の大家として国際的に著名なノルウェーのアーネ・ネス(Arne Naess 1912− )であるが、彼を「ディープ・エコロジー」の思想と運動に駆り立てたのは、哲学研究上では「弟子」に当る同国最初の実存主義の作家ペーター・ウェッセル・サプフェ(Peter Wessel Zapffe 1899 - 1972)の提出した「ビォソフィー」思想の抱懐する悲劇的な人間本性論・過剰装備論であった。彼によれば、人間と環境との間には三つの基本的パターンがある。
  1,人間と環境との間に完全な調和関係が存在する場合、
  2,人間の能力と関心が環境の要求に対応し切れない過少装備の場合、
  3,人間の能力と関心に環境の方が対応できない過剰装備の場合。
  「過剰装備」とは、人間が生物として生きるのに必要な「感覚」以外に「知性・記憶力・想像力・感情」を始め、言語能力・芸術的能力を有することを意味し、人間がこの過剰装備によって自然界における「変種動物」「はみだし」「癌腫瘍」たるところに、没落と破滅を運命づけられた彼の悲劇的存在性がある。この悲劇性を克服する唯一の道は、人間の過剰装備の介入を赦さず、現代テクノロジーに対して物凄い否定の怒号を浴びせる「山岳自然」の野生と未開の中に人間存在の母なる原郷を発見することである。                            
  B)「エコソフィー」(ecosofi)
「ディープ・エコロジー」というターム自身ネスの命名によるが、彼は自らの「ディープ・エコロジー」をさらに「エコソフィー」と呼ぶ。そして、先ず「ディープ・エコロジー」の七個の一般的テーゼの内最重要なものを三つ挙げれば、
  1、人間を関係論的・全フィールド的イメージの中で把握する。環境という入れものの中に個々に独立した人間が入っているという原子論的見方を解体しなければならない。
  2、生命圏平等主義。「生き繁栄する平等の権利」を人間に限定するのではなく、 一切の生き物に承認しなければならない。 
  3、多様性と共生の原理。「生きて生かす」の理念。
  さらにネスが「ディープ・エコロジーのプラットフォーム(platform)」とも称する「エコソフィー」の八個の原理は、                                      1、地上の人間と人間以外の生命はそれ自体として本質的・内在的価値を所有する。
  2、生命形態の豊かさと多様性はこれらの価値の実現に貢献し、またそれ自体価値を持つ。
  3、人間には生存欲求を満たす以外に、これら生命の豊かさ・多様性を減らす権利はない。
  4、人間以外の生命の繁栄は人口の実質的減少を要求する。 
  5、今日人間以外の世界に対する人間の干渉は過剰であって、事態は急速に悪化している。
  6、それゆえ経済的・技術的・イデオロギー的構造に関わる政策変更が不可欠である。 
  7、物質的生活水準の向上に固執するよりも、生活の質を評価するイデオロギーの変革が必要である。   
  8、以上の七つの原理に同意する者は、必要な変革を遂行する義務を有する。     

  C)「エコ・フィロソフィー」(eco-filosofi)
  ネスの弟子シーグムン・クヴァーレイ(Sigmund Kvaloy 1934- )の「エコ・フィロソフィー」は、北米・ヨーロッパ・日本によって代表される「産業−成長−社会」と北極圏のエスキモーやヒマラヤ地方のシェルパ族を典型とする「生活−必需品−社会」とに区別する。前者は、環境・社会・精神等のあらゆる次元でのアンバランスを加速度的に増加させる一方、ストレス・暴力・社会的正義の欠落といった問題の発生原因と解決の手段を技術的・経済的なものの中に探り、社会的な絆が引き裂かれ、無意味な生き方が蔓延する「偽造世界」であり、環境破壊の元凶をなしている。これに対して後者は、自然資源とのバランスの中で生活する能力としての「外的安定」と、他者に対する誠実さと個性との融合を意味する「内的安定」、これら二つの安定の相互依存性を基礎として構築されている社会である。環境危機をどこまで克服しうるかは、「産業−成長−社会」をどの程度まで「生活−必需品−社会」に立ち返らせることができるかにかかっている。
  以上の諸問題については、拙著『ディープ・エコロジーの原郷 ノルウェーの環境思想』(東海大学出版会 2006年)において詳しく論じた。
                    (2008/6/12 明治大学政経学部総合講座)