筆 者はこれまで、キェルケゴール・北欧神話・ウプサラ学派の価値ニヒリスムの三者を主要な研究対象としてきたが、それを基盤としてさらに筆者の関心は、現代 世界の抱える緊急の思想的課題 - 宗教・医療・環境の問題 - を解決する方向を、北欧思想圏の哲学的思惟を通して探るという目論見へ進んでいった。そ して、極めて貧しい試論には留まるが、それぞれの対象・主題について研究成果を発表することができた。しかし、現在筆者の願望は、従来の考察を一層ラディ カルに深めるとともに、そこからさらに浮かび上がってくる北欧固有の諸問題に対して総合的な検討を加え、その成果を体系的に「北欧学」という新たな学問に 結実させたいという方向に向かっている。筆者に残された時間は多くはないが、それへの積極的な挑戦が、ライフワークの主たる部分を占めることになる。
この場では、筆者がこれまで上梓した著作と翻訳を、研究業績として紹介すると同時に、続いて筆者がそれぞれの機会に発表してきた比較的短い論考を用いて、 必ずしも全体が体系的に組織されているわけではないが、現在筆者の念頭にあるかぎりでの「北欧学」なるものの構想内容と、想定される具体的な主題につい て、述べてみたいと思う。

2008/01/30

研 究 業 績

著作
『ディープ・エコロジーの原郷-ノルウェーの環境思想』

東海大学出版会 2006年。
『生と死・極限の医療倫理学-北欧スウェーデンにおける「安楽死」問題を中心に』
創言社
2002年。 
『スウェーデン・ウプサラ学派の宗教哲学-絶対観念論から価値ニヒリスムへ』
東海大学出版会2002年。
『北欧神話・宇宙論の基礎構造-《巫女の予言》の秘文を解く』
白凰社1994(京都大学学位論文)
『北欧思想の水脈-単独者・福祉・信仰‐知論争』
世界書院1994

その他。


翻訳

S.キェルケゴール:『畏れとおののき』『受取り直し』(キェルケゴール著作全集第三巻所収)
創言社
20085月刊行予定。
A.オルリック:『北欧神話の世界-神々の死と復活』
青土社2003年。 
S.キェルケゴール:『愛の業』(共訳、キェルケゴール著作全集第十巻所収)
創言社1991年。
S.キルケゴール:『野の百合と空の鳥』、(キルケゴールの講話・遺稿集第三巻所収)
新地書房1980年。
J.スレーク:『実存主義』
法律文化社1976

その他。

2008/01/29

「北欧学」の構想-北欧神話から「北欧学」へ

[Ⅰ]

  最近筆者は、自分の専門分野を問われると、「宗教哲学・北欧学」と答えることにしている。宗教の本質の哲学的解明を課題とする伝統的な「哲学」の一部門としての「宗教哲学」に比較すると、「北欧学」(nordology,nordsvetenskap)というのはいまだ明確な理念体系・方法論を有する固有の学問領域として成立してるわけではない。それだけに、自分の専門分野の一つとして、そのような耳慣れない未成熟な学名を挙げるのはどうかと躊躇する思いもないわけではないが、それにもかかわらずやはり「北欧学」なるものを一定の方法論に支えられた具体的な一学問体系として独立させたいという密かな願いを抱いている筆者としては、将来における「北欧学」確立への願望を込めて、敢えて「北欧学専攻者」を名乗っているわけである。なお「北欧学」の体系構造と方法論についての筆者の暫定的な見解は後に述べることにする。そして、この点と関連して敢えて言わせて頂けるなら、筆者の本来の研究分野である「宗教哲学」も、このようにいまだ未開拓の学としての「北欧学」と称するものの構想内容と密接に結びついており、さらにはこの「北欧学」の構想にとって基幹的意味を有するのが、筆者にとっては「北欧神話」に他ならないののである。

  『ユリイカ』編集部から求められたのは「北欧神話」そのものについて一筆ということであったが、筆者が「北欧神話」から「北欧学」の構築を意図するにいたった経緯に触れることで、御要望に応えさせて頂ければと考える。

  鈴木大拙の著書を通して筆者が最初に知った北欧の思想家は、スウェーデンの神秘主義者E.スエェーデンボルイ(1688 - 1772)であるが、筆者の学生時代に支配的だった哲学思潮が実存主義であったことにも影響されて、学部及び大学院で取り上げたのは隣国デンマークのS・キェルケゴール(1813 - 1855)であった。ところが 、彼の探索を継続してゆく中で改めて気づいた奇妙な事実は、通俗的には「北欧の生んだ孤独憂愁の哲人」と称されながら、デンマーク本国を含め内外のキェルケゴール研究の中に、彼を厳密に北欧デンマークの思想家として積極的に把握しようとする方向が垣間見られないということであった。そして、このような否定的な状況はその後若干改善された兆しがないわけではないが、キェルケゴールを「国籍不明の思想家」に還元しかねない曖昧な研究姿勢・方向は、現在に到るも大きな進展は遂げてはいないように思われる。いったいキェルケゴールがデンマークという北欧の自然的・思想的風土の中に生誕し成長したという事実は、彼にとってはいかなる積極的な意味をも持ちえないのか、もし持ちうるとすれば彼を北欧デンマークの思想家たらしめている固有の特性,彼の思想体系を貫く真に北欧的な要素、いわば彼における「北欧的なもの」(det nordiske)とは何なのか、こういった疑念に駆られると同時に、改めてこの「北欧的なもの」自体が何なのか、その実体を生成の源まで遡って見極めようとして、筆者が一旦キェルケゴールの思想圏から離れて赴いた先が「北欧神話」の世界であったわけである。

[Ⅱ]                 

  「北欧神話」の解読を通して、北欧精神史乃至思想史上最初に「北欧的なもの」の実体を、「北欧民族精神」という観点から,「戦いの精神」として規定したのは,キェルケゴールと同時代の詩人・宗教家NFS・グルントヴィ(1783 - 1872)であった。彼は、「北欧神話」最大の雄編『巫女の予言』の中に、世界の終りまで決して終結することのない神族と巨人族との戦いの場面を通して、北欧人の生全体を支配・統治する基本理念が、「戦いとしての生」であり、このような「戦いとしての生」を、まさに「普遍妥当的真理」にまで高めているのが、「北欧神話」全体に他ならないと見なすのである。例えば、次のようにも言う、「北欧民族精神は神自身の霊と極めて多くの同等性を有しており、真理と虚偽、生と死、光と闇、それらの間に介在する巨大な戦いを凝視する。そしてこの戦いにおいて北欧民族精神は死とともに、死にまつわる虚偽と冷酷無情な心を克服する生の側に立つのだ」(1)。だが、同時にグルントヴィは、特に晩年においては、この「北欧民族精神」の限界をも認識していた。「北欧民族精神が夢見るもの、真理を北欧民族精神自身は実現する力がない。真理の実現はあくまでアース神の夢に留まるのである」(2)。なぜならアース神は、「ラグナロク」において没落せざるをえないからである。『巫女の予言』の最終場面に登場するこの「ラグナロク」の表象は、まさに「ragna(神々の) rok(運命・死)という語義通り、アース神が「有限的なものと同化して、有限的なものの法に服従しなければならない。彼らは自らの永遠性を喪失せざるをえない」(3)という悲劇的事態を意味するからである。だが、同時にこの表象は、グルントヴィにとっては、それがキリスト教が登場するための決定的契機としての「時の充実」であり、いわばゲルマン異教信仰が新たなキリスト教信仰に転換移行するための無制約的前提であり条件なのである。グルントヴィは、ゲルマン異教とキリスト教との関係を断絶的にではなく、あくまで相互媒介的な連続性において把握する。彼が自らの立場を「北欧的―キリスト教的立場」と称する所以がある。

  以上のような意味で、グルントヴィの場合、「北欧民族精神」「戦いの精神」としての「北欧的なもの」は、「ラグナロク」において自らの限界に到達せざるをえないゆえに、それ自体は「浄福を与えてくれるものではない」。だが、それにもかかわらずこの「北欧的なもの」が、「母国語の、民族生活の精神的な力を付与するものであって、さればわれわれ北欧人にとっては最良の教師、しかも間違いなくこの世で最も素晴らしい教師である」(4)。グルントヴィがデンマーク国教会の改革と国民教会及び国民高等学校の設立という偉業を果たしえた背景には、彼固有の「北欧的なもの」に対する熱烈な思いがある。    北欧神話全体を貫く「戦いの精神」を「北欧的なもの」の典型として把握し、この「北欧的なもの」の限界を「ラグナロク」の悲劇の中に発見したこの父の影響下、デンマークの口承伝説を収集して 巨大な業績を挙げたのが、息子のスヴェン・グルントヴィであり、さらにその高弟が北欧神話研究史上最高の古典的名著の一つ『ラグナロク論』と『ラグナロク表象の起源』を完成したデンマークの民俗学者・神話学者・文学史家アクセル・オルリック(1864 - 1917)である。今に到るもラグナロク論においてそれに匹敵する、ましてや凌駕する業績の現れていない二巻本の前著において、オルリックは「ラグナロク」表象について、グルントヴィとは異なる見解を提出している。先ずオルリックは、この表象をグローバルな視界から仔細に考察することによって、『巫女の予言』の告知するごとき巨大な宇宙論的破滅という「ラグナロク」表象は北欧の風土の中だけで孤立的に誕生したものでもなければ、かといってキリスト教的終末論に由来するものでもなく、あくまで全人類の魂の深層に通底する共通のイメージに発生源があり、より厳密には、「西方からのケルト的流れ」とタタール人やペルシァ人にまで及ぶ「東方からの流れ」という二つの流れの交差によって誕生したものが『巫女の予言』の「ラグナロク」表象であると主張する。とはいえ、そこにはこの表象の北欧的特性とも言うべきものが厳然と存在していることも歴然たる事実であって、オルリックはそれを「ラグナロク」表象が語られる際に前提乃至背景として提出される全存在の徹底的な暗さ・憂鬱さを挙げると同時に、「没落に到ることを承知している恐るべき戦いを凝視する沈着冷静な真摯」を指摘する。「運命の歩みに割って入り、倒れた父親オージンの復讐を果たす瞬間、全生涯を賭して虎視眈々と狙う沈黙のアース神ヴィーザルこそ北欧的である」、とオルリックは言う。しかし、それとともに彼は、「死の感情が極めて切迫したものであればこそ、北欧人はまた、生の火は何としても消してはならないという思いも、強烈に表現することができる」という意味において、北欧人は「復活への希望を、純粋かつ大きなスケールで抱いていた」、と見る。オルリックによれば、オージンを呑み込んだフェンリルの狼に対するヴィーザルの復讐劇は,「大きく高い犠牲を払って得た生への勝利」を物語るのであるが、とはいえヴィーザルの戦闘を語る古代北欧人の脳裏に焼き付いていたのは、「至福の新世界」ではなく、あくまで「没落の中にあってなお最高に価値あるもの―生―を堅持する不屈の力」なのである。「北欧のラグナロクの基礎資料(『巫女の予言』)においては、死の不安が力を奪おうとするまさにその瞬間に、一転して生への信仰が全力を集中しつつ、開かれた死の口を引き裂く瞬間に直面する」、とオルリックは言う。

  以上のように見てくると、いまやオルリックにとって「北欧的なもの」の何たるかが鮮明になつてくると思われる。彼は、異教信仰からキリスト教信仰への移行を必然的過程と見なすグルンドヴィのように、「北欧的なもの」の消滅的契機を「ラグナロク」の悲劇の中に見るのではなく、むしろこの悲劇的出来事自体を「北欧的なもの」の決定的な表出の場面として把握するのである。だから、実は本質的に復讐劇に他ならない巨人族と神族との全面戦争の告知する暗欝な現存在全体・世界全体の秘儀を凝視しつつ、迫り来る死の運命を泰然と受け留める「沈着冷静な真摯さ」、そして同時に再生・復活への強烈な意志、オルリックの場合、これら二面が「ラグナロク」の悲劇的状況の中で顕になる最も厳密な意味での「北欧的なもの」として了解されるのである。(なお、オルリックのラグナロク論第一部は、拙訳で『北欧神話の世界-神々の死と復活』として青土社から刊行されている。なお、文中のオルリックの発言は、本訳書249頁-257頁からである)。 

  さて、こういったオルリックのラグナロク論の強烈な影響下、やはり『巫女の予言』を最重要資料とした上で、さらに拡大された視野から各種資料・文献を駆使することによって、「北方ゲルマン人の異教的世界没落論」の徹底検証を行なったのは、『古代ゲルマン宗教史』二巻(1935 - 37)他,ゲルマン神話学・宗教史学の分野において超人的な業績を挙げたオランダの碩学ヤン・デ・フリース(1890 - 1964)である。彼は、『巫女の予言』が「真の芸術家」の手になる際立った詩編であるとしても、そこから北欧人がかつて抱いていた固有の「終末論的世界観」に対する証言を引き出すことは可能であるとして、その具体的内容を次のように明らかにしている。長さを厭わず引用することにする。

  「『巫女の予言』の詩人の意図は、当時すでに知られていた神話的なラグナロク物語を扱うことではなく、それによって彼は世界観を語ろうとしたのである。彼にとって主要な課題は、ラグナロクがどのように生起するか、いかなる諸力がいま世界の現存在を脅かしているか、未来はどのように形成されるか、ということである。ラグナロクの事象は、オージンとその息子バルドルの対立において、頂点に到達する。没落に向う古い世界は、オージンの世界である。新世界はバルドルのものである。だから、『巫女の予言』の詩人は、バルドルを罪なくして死した神と見なす。この神は前時代の堕落には与からず、復活した世界では新しい支配者として君臨する。かくて『巫女の予言』の詩は、戦いと偽り、悪徳と罪の、悪しきこの世界からの救済を求める人間の未来像を含んでいるのである。しかし、詩人の思惟の跳躍が、彼をこのような高みにまで導くということは、罪の世界に対する勝利の意識を告白させる信仰を、彼がとっくに知っているということによってのみ説明がつく。だが、それにもかかわらず、詩人はキリスト者ではない。彼は、異教信仰の中に完全な再生の力を発見できることを確信していた、敬虔な人物であった。『巫女の予言』は、二つの時代の狭間に生きる魂の感動的な告白である」(5)

  さらに、デ・フリースは、『巫女の予言』全体を貫く男性的心情の深さ、確固不動の信仰、道徳的自覚の真摯さ、よりよき世界に対する切なる憧憬と飛翔こそ、詩人を「古代ゲルマン最大の芸術家」たらしめた所以のものとしているが、こういったデ・フリースの見方が、先のオルリックのそれと軌を一にするものであることは言うまでもない。オルリックは、「ラグナロク」神話のことを、「徹底的に考え抜かれ、生き抜かれた北欧人の真摯さ」の典型的表現として受け留めるが、こういった見方を根拠に、デ・フリースはさらに、世界終末に関するさまざまな民俗的表象の結合点かつ頂点に到達したのが北欧の「ラグナロク」思想であって、ここにおいて「壮大な終末論的体系」が創造された、という結論を導くのである。そして筆者は、彼らが特徴づけるこういった「ラグナロク」理解を通して、神々と世界の崩壊の終末論的世界観という一つの思想体系にまで構築された「ラグナロク」表象の中に、まさに「北欧的なもの」のエッセンスが凝縮されていると考えるのである。

  さて、筆者がオルリックとデ・フリースの「ラグナロク」論にこだわった所以は、冒頭で述べたように、いまに到るもキェルケゴール研究の抱えるブラックホール的間隙 ― 彼における「北欧的なもの」 ― の実体を見極めるようとして北欧神話に向かい、「ラグナロク」表象に行き着いたのであるが、この表象が神話的な宇宙論や世界観の場から、実存する単独的な人間の主体的な立場へと内面化・人格化されるとき、それは独自のラディカルな実存的終末意識・破滅意識、そして強烈な再生願望へと凝縮され、かつそのようなものとして表現されることになる。そして、この意味における「北欧的なもの」の最も先鋭的な表出を、筆者は、キェルケゴールの「不安」 や「絶望」の概念に見出しうると確信している。彼の『不安の概念』及び『死に到る病』は、私見によれば、まさに現代における実存哲学的「ラグナロク」論に他ならない。彼はキリスト教思想家である以前に、より根源的に北欧人であり、固有の終末論的没落意識に貫かれた北欧の土着的思想家なのである。事実、キェルケゴールのなかんずくこれら両著と『巫女の予言』との間に、論理的・心理的側面を含む思想上の著しい類似性・近親性が存在することは、一読看取しうるであろう。もっとも、キェルケゴール自身は、北欧神話に冷笑を浴びせることによって、それに由来する「北欧的なもの」から意識的に距離を置こうとするが(6)、これにはグルントヴィやデンマークに置ける最初の本格的な「ラグナロク」論を学位論文として完成したM.J.ハムメリック(1811 - 81)への激しい対抗意識も無関係ではないであろう(7)

  ところで、オルリックやデ・フリースの所論に負いながら、「北欧的なもの」の実体を北欧神話の中に確認する作業の過程で、実は筆者は、彼らによっても『巫女の予言』の提出する北欧異教的終末論の重大な側面が看過されているという事実を発見した。それは、この終末論にとって宇宙創造論(cosmogony)の有する決定的役割に取り立てて深い関心が向けられていないということである。北欧神話では、自然原理を意味する巨人族によって精神原理としてのアース神族が創造され、そのかぎり自然原理が精神原理に絶対的に優越するという秩序が確立されている。それにもかかわらず、この宇宙論的秩序が破壊されてアース神族が自らの創造主たる巨人族の祖を殺害し、いわば自然に対する精神の破壊活動を通して宇宙が形成されたというのが、北欧神話の主張である。そして「ラグナロク」の場面で登場する全面戦争というのは、本質的に、宇宙論的秩序を転倒・破壊した精神原理たるアース神族に対する、自然原理としての巨人族の「復讐」の攻撃に他ならないのである。しかし、そうなると、アース神族の王オージンを呑み込んだフェンリル狼に対する王子ヴィーザルの「復讐」は、基本的に「復讐」に対してのさらなる「報復」ということになる。復讐に次ぐ復讐、自然原理と精神原理とのこういった壮大な宇宙論的規模の報復の連鎖する世界に未来はない。巨人族と神族、自然と精神は劫火に包まれながらともに崩壊の運命を辿るのは、そのためである。拙著『北欧神話・宇宙論の基礎構造-<巫女の予言>の秘文を解く』(1994年 白凰社)は、「ラグナロク」の北欧的終末論によって無制約的に前提とされる宇宙創造論と宇宙形態論の基本構造を解き明かしたものであり、『ディープ・エコロジーの原郷-ノルウェーの環境思想』(2006年 東海大学出版会)では、北欧ノルウェーの自然環境に発する現代の「ディープ・エコロジー」思想が、北欧神話における上記のごとき自然と精神と相互破壊的活動の理念によって先取されており、端的に言えば、古代北欧神話がある意味すでに「ディープ・エコロジー」そのものの書たりうることを示した。

[Ⅲ]                      

  キェルケゴールや北欧神話における「北欧的なもの」への関心の一方、これまで筆者が、現代の哲学がそれとの対決を抜きにして自らの存在意義を語ることができない指標的対象として考えてきたのは、宗教・福祉・医療・環境の問題であった。そして、筆者としては、これら各問題と真摯に真っ向から対峙することによって独自の透徹した思索を展開しているスウェーデン・デンマーク・ノルウェーの思想圏に向い、同時にそこに「北欧的なもの」の刻印を探るという、いわば哲学的問題と「北欧的なもの」、これら二つのものへの関心を総合するような仕方で、これまでおぼつかない歩みを続けてきた。そして、その過程で改めて痛感したことは、古代の異教的土壌で育成されたとはいえ、「北欧的なもの」の中核をなす「ラグナロク」の破滅・没落意識が、たとえ潜在的にせよ、さまざまに形状を変えながらも現代北欧思想の内部に奥深く浸透しているのではないかということであった。この点に一々言及はしていないが、何れにせよ先に紹介した北欧神話論・ノルウー環境論・スウェーデン・ウプサラ学派の宗教論と医療倫理論、デンマーク福祉論等、筆者がこれまで上梓した五冊の単著は、すべて上記二つの視点への両面的な関心が基礎になっている。そして、筆者の最もおうところの多いウプサラ学派の価値ニヒリスムは、既存の有神論的宗教哲学に「ラグナロク」を宣告することによってその解体を迫る哲学であり、

  さらに安楽死思想を中心として論じた医療倫理論はもとより、デンマークの哲学的福祉論にしても、人間の社会的状況における「ラグナロク」的事態を厳しく凝視し続けるところで初めて可能となつた、まさに「北欧的なもの」の顕在化に他ならないのである。

  しかし、北欧神話の古代から一挙に現代の北欧に飛躍して「北欧的なもの」を探ってきた筆者の目下の切実な関心事は、第一に古代北欧神話から出発して現代のラディカルな問題に到達するまでの時間的推移の中で、この「北欧的なもの」がどのように育成・認識されてきたかという、いわば「北欧的なもの」の歴史的展開の様相を一定の視座と方法論に基づいて確認し、第二にその作業を通して総合的・体系的に「北欧的なもの」の何たるか判断することを通して、暫定的に筆者が「北欧的なものに関する歴史的及び体系的研究」と定義する「北欧学」なるものを、新たに独立した学の一分野として確立することである。筆者が知るかぎり、北欧諸国においてもこの種の総合学はいまだ成立していないし、本邦では書籍やウェブ・サイト上に時折「北欧学」なる呼称が見かけられるが、その際にもこの学名が明確な定義の下に使用されている気配はなく、大雑把に北欧文化の諸側面に関する学際的な研究といった程度の、ごく一般的な意味で用いられているようである。筆者自身にしても、差し当っては上記のごとき暫定的な規定しか手にしていないのが実情であり、まして「北欧学」のさらに明確な輪郭や方向の提示、体系の具体的構造等の問題解決はすべて筆者に課せられた今後の課題である。なお、以下では、「北欧的なもの」の歴史的展開を検証しようとするに場合、筆者が常々最高の指標を提供してくれるものと評価している一つの貴重な資料に言及することで、筆者自身がどういった文化現象を具体的に「北欧学」の対象と考えているかを示唆して、この序論的考察を終ることにする。

  「北欧的なもの」の歴史的考察ということをより広義に捉え直すなら「北欧精神史」と称して差し支えないであろうが、十九世紀後半この「北欧精神史」の分野において真に先駆的かつ画期的な業績がデンマークの文化史学者カール・ローセンベーャによって齎された。著者の道半ばでの死去により完結はしなかったものの、それでも総計一七六三頁に及ぶ三巻本の『北欧人の精神生活―古代から現代まで』(8)は、「希に見る調和の取れた労作」と評価される記念碑的大著であり、これに匹敵する、ましてそれを凌駕する著作は北欧その他いかなる国にも登場していない。著者は三巻本のそれぞれにおいて異教時代・カトリック時代・前期ルター主義時代を取り上げつつ、北欧民族精神独自の特性が際立った仕方で顕現していると思われる文化現象に注目している。その中で筆者が「北欧的なもの」に対する典型的な歴史の証言として「北欧学」の視座から格別したいのは、前の二つの時代に属する次のような現象である。ローセンベーャのタームをそのまま用いる。

  異教時代―岩盤刻画とルーネ文字、異教的民族詩(エッダ神話)と異教的芸術詩(スカルド詩)

  カトリック時代―法の生成と精神、歴史記述、『ヘクセーメロン』(北欧のスコラ学)『王の鏡』(哲学的思惟)、聖女ビルギッタ『啓示』(宗教的思惟)

  最初に挙げたヨーロッパ最後の神秘主義者と言われるエマニュエル・スウェーデンボルイはローセンベーャ的な時代区分によれば「後期ルター主義時代」に属するが、上記のような理由で、ローセンベーャの記述は「前期ルター主義時代」に活躍したスウーデンボルイの父エスパー・スヴェドベルイへの言及に留まっている。スウェーデンボルイ自身については、ローセンベーャ的な時代区分では、後期ルター主義時代に属することになるが、聖女ビルギッタとともに、創世に遡って過去を回顧し、未来の出来事を幻視を通して予見するという、『巫女の予言』スタイルを継承した北欧的思想家の典型であった。 

  北欧神話に基盤を置いた「北欧学」の構築を筆者自身がどこまで進められるのかはまったく未知数であるが、この新たな学のより厳密な方法論的吟味の問題は当面留保しておいて、以下では、ローセンベーャの業績を念頭に置きながらも、それとはまったく別個に、筆者自身が「北欧学」において取り上げられるべき重要課題と考える幾つかの主題について、これまでの筆者の研究を基に考察を試みることにする。

(1)次の編著で紹介されている文、Christiansen, C.O.P. og Kjaer, Holger: Grundtvig, Norden og Goeteborg, Kbh. 1942, S.37.

(2)ibid..

(3)Grundtvig, N.F.S. : Nordens Mythologi, Kbh. 1932, S.174.

(4)(1)に同じ。

(5)de Vries,Jan: Altgermanische Religionsgeschichte, Bd.2 , 1970, S.396.

(6)この点については、以下の拙稿を参照されたい、「キェルケゴールの神話論」(『キェルケゴール研究』第221992年、24)

(7) Hammerich, Martin: Om Ragnarokmythen og dens Betydning i den oldnordiske Religion, Kbh.1836.

(8)Rosenberg, Carl: Nordboernes Aandsliv fra Oldtiden til vores Dage, Bd. 1-3, Kbh. 1878 - 85.

(『ユリイカ 特集*北欧神話の世界』第3912 [通巻541] 138144頁所収)

2008/01/05

「北欧学」の主題―[Ⅰ]ゲルマン異教からキリスト教への「改宗」

[Ⅰ]

  北欧精神史乃至北欧思想史、さらに限定的な意味で言えば北欧教会史において、文字通り「エポック・メイキングな」意味を持つ最重要課題の一つに、古代ゲルマン異教からキリスト教への転換、いわゆる「改宗」と言われる宗教的・社会的乃至政治的現象があるが、筆者の構想する「北欧学」においても、当然取り上げられるべき主題の内最たるものに属すると見なして差し支えない。問題のスケールの大きさから見て、限られたスペースで簡単に処理できるような小さなテーマではないが、以下では特にこの問題に関するエキスパート若干名の所説を参照しながら、暫定的にこの主題に接近してゆくことにする。

  一般に、質を異にする宗教間の移行、端的に「改宗」convelsio, omvendelse)と言われる現象の場合、成立の次元が個人的か民族的かの区別はともかく、そこに見出だされるのは、基本的に主体的・実存的な行為としての「改宗」であるはずである。そのかぎり、この問題は、主体的・実存的視点から取り上げられなければならないのは当然であるが、小論というスペース上の問題のみならず、時代的背景及び資料上の制約からも,個人における主体的・実存的行為としての「改宗」の考察はどうしても留保せざるをえず、結局筆者としてはここでは主たる関心対象を、結局、11世紀前後における北方ゲルマン「民族」の改宗史の抱える問題に限定することになる。


  ここで「北欧民族」として想定しているのはなかんずくデンマーク、スウェーデン、ノルウェー、アイスランド四国に帰属する民族のことであるが、彼らのゲルマン宗教からキリスト教への改宗という歴史的事実に関して一つの指標を提供するのはアイスランドの場合である。というのも、この国では丁度1000年に全島大会Alltingにおいてキリスト教への改宗が法的に許可されるが、デンマークとノルウェーのキリスト教化はそれ以前、スウェーデンの場合はそれ以後に属するという仕方で、前後に約300年間の落差はあるものの、北欧四国の改宗はほぼこの時代に集中しており、このことが四つの北欧民族における改宗に共通する特質を付与する要因にもなっているのである。そして、彼らの改宗に共通するこの特質こそ、彼らの「比較思想的行為としての改宗」を決定的に特徴づけているものであり、それの発見と指摘が筆者の意図するところでもある。

[Ⅱ]

  そのために、筆者は先ず、アイスランドを中心とした改宗への「外的経過」を簡単に窺うことによって、外から見た北方ゲルマン民族における改宗の一般的特質をあぶり出してみることにする。スカンディナヴィア諸国のこのキリスト教化について、デンマーク考古学界の権威ヨハネス・ブレンステーズは、このように述べている。

  「(スカンディナヴィア諸国への)キリスト教の浸透は急速なものではなかった。ヴァイキング時代の始まる800年頃の北欧はまったくの異教世界で、デンマークの改宗までは約150年、ノルウェーとアイスランドでは約200年を要し、スゥーデンが完全にキリスト教化されるまでは300年以上が経過した。この穏やかな慈悲と苦難の宗教がヴァイキングをどのようにして征服することができたかを問うよりも、改宗にこれほど長時間を要したことの方にむしろ驚く理由がある。というのも一方は多彩な神々の王国ではあっても、実際にはそれほど強力ではなかったのに対し、もう一方はローマ教会の巨大な組織を背景に浸透の試みを不断に繰り返し、手始めに王や首長ら北欧社会の上層階級を懐柔するという巧妙な戦術を所有していたからである。だが、改宗にかなりの時間を要した理由とは、北欧古来の宗教に秘められていた力が、代々継承されてきた祭祀、つまり一年の歩みや生命の豊饒さや収穫と不可分に結び付いた祭祀形態の中に宿っていたことであろう。上層階級に対する改宗はほぼ順調に行ったが、この新しく強力な唯一神が社会に根付く過程で、それまでヴァイキングの現世生活の要求と存在を確かなものとし、あらゆる時代の経験を備えた古来の宗教の風俗習慣が侵害されようとした時、始めて事態は深刻となった。この領域における転向・改宗が実に長い歳月を必要としなければならなかった」(1)

  スウェーデンの宗教史家フォルケ・ストレームも、ヴァイキング時代多数の北欧人が海外でキリスト教と直に接触し、新しい思想を携えて帰国したものの、全般的にはこの地域に定住していた農民人口が父祖伝来の信仰を頑固に固持するという仕方で、宗教と社会生活との間に存在する強い結び付きのために、当時の北欧においてはキリスト教は根本的に社会の下層階級の運動にはならず、この地のキリスト教伝道は、宗教や法秩序の支柱、つまり王や権力者に向かったところにその特質が存在することを指摘している(2)。そして、フォルケ・ストレームは、ブレンステーズの上記引用文において指摘する、豊かな時代的経験を有する古来の宗教の風俗習慣が侵害される基本的な場面として、社会全体にとって重要な意義を有する公的な祭祀の維持者(王・権力者)が、もはや自らの伝統的な祭式機能を発揮しなくなって、国民大衆が個別的に執り行なう屋敷内の祭祀が単独では埋めることができない宗教的な真空状態の発生ということを挙げている。インターナショナルな志向性を有するキリスト教徒の王の権力と、村落に根付く古い宗教を奉ずる農民の勢力との間に、たとえ一時的に激烈な闘争があったり、ゲルマン異教からの反動が短期間成功を収めることがあったとしても、結果は始めから明らかであったのである。

  デンマークの著名な宗教史家ヴィルヘルム・グレンベックの、スカンディナヴィア諸国における改宗過程の特質に関する以下のごとき発言も、このような歴史的事情を踏まえてのことである。

  「(スカンディナヴィア諸国においては)全体として見ると、それほど深刻な格闘なしに行われた。このような精神革命が若干の抵抗を伴うのは当然のことであった。実際、オーラフ一世トリュグヴァソンOlav Trygvason 995 - 1000)や聖オーラフ二世Olav den Helige 1015 - 30のように改宗に熱心だった王と国民との間に、かなりの摩擦があったことが知られており、特に前者は乱暴な方法を用いたために、彼らの不満を相当掻き立て、この国の各地で大きな抵抗運動が発生した結果、あちこちで古い信仰への殉死者が出たのであった。しかし、南の方角から勝利を収めつつ突進してきた宗教については、厳密な意味での戦いについてはまったく問題にならなかった。その移行がどんなに容易に行われたか、その証しはアイスランドにおいて発見することができる」(3)

  特に以上デンマーク及びスウェーデンの代表的な三人の研究者ブレンステーズ、ストレーム、グレンベックの所論を総合してみると、

 1)オーラフ・トリュグヴァソン治下のノルウェーのように若干の場合は例外として、また新宗教勢力と旧宗教勢力との間で後者への殉教者の発生を交えた短期間若干の信仰闘争が発生したとしても、北欧の場合、アイスランドにおいて典型的に見られるように、ゲルマン異教からキリスト教への転換は自明的な仕方で比較的平穏裏に行われた。

  2)その反面、アイスランドの1000年を挟み、スカンディナヴィアの他の三国のキリスト教化が、その前後に300年という長期間を要した理由は、次の点にある。つまり、ローマ教会の懐柔策に嵌まって最初に改宗した王や首長といった権力者が、国民を啓蒙するという仕方でキリスト教化を謀ったものの、伝統社会を支えてきた異教の公的祭祀の主催者としての役割を放棄することによって、国民の間に一種の精神的な真空状態もたらした権力者にとっては、当の国民大衆の伝統と日常生活の中に深く織り込まれた伝統的な異教祭祀を、慈悲と苦難の新宗教へ一気に、かつ短期間に移行させることは不可能であったということである。しかし、北欧人にとっては、この移行・改宗の運動自体は、もはや避けられない必然的運命であった。

  ブレンステーズはまた、以上の事態を踏まえて、「全島民の同時改宗という、他に類例のないこの奇妙な方法自体、すでに島内的には改宗の機が熟していたことを証明している。古来の宗教は、アイスランドでは早くも無力化していた」、とも述べているが、これは、「社会生活と法と宗教との間の不可分な結びつきをめぐる洞察が、異教の運命を確かなものにすることになった」(フォルケ・ストレーム)、という意味に理解しなければならない。そして、このことはまた、アイスランドにおけるゲルマン異教からキリスト教への転回は、前後裁断的・二者択一的な決断の行為とは言い難く、むしろドイツの宗教史家アドルフ・ヘルテがその著『ゲルマン精神とキリスト教の遭遇』の中で提出している、「『エッダ』や『サガ』の故郷アイスランドでは、異教は原則的には排除され、改宗は遂行されたものの、改宗は国民にとってはもとより心の問題ではなく、所詮はまったくの外面的な事象にすぎず、異教に託されたこの留保の姿勢こそ、この島におけるキリスト教への移行を本質的に特徴づけるものである」(3)、という見解こそが、この北欧ゲルマン民族の改宗の真相を突いていると見なすことができよう。もっとも彼も、オーラフ・二世聖王が1016年に異教に対する一切の譲歩排除を命令して以後、漸次異教が消滅してゆき、アイスランド人の中にキリスト教的思惟と感情が根付いていったことを認めてはいる。

[Ⅲ]

  しかしながら、アイスランドにおける改宗のこのような特質を知る時、筆者としては、ドイツの著名なゲルマン宗教史学者ヴァルター・ベトケが提示した、以下のごとき主張に特別注目せざるをえないであろう。

  「当然、異教の抵抗力が、新しい信仰の受容に対して影響がないはずはなかった。スカンディナヴィア諸国では、ドイツの場合同様、キリスト教の容認にはさまざまな強制力が用いられ、かくて移行期間には<ゲルマン的ーキリスト教的シンクレティズム(混合主義)ein germanisch - christlicher Synkretismus)が展開されたのである。この<シンクレティズム>は確かに部分的にはその後克服されはしたが、しかしまた一部はさらに強化されて、結果的には<大規模なキリスト教のゲルマン化>をもたらすことになるのである。もしキリスト教の内面的獲得を問うのであれば、この混合-変形過程の在り方と範囲を確認することが重要になる」(5)

  アイスランドにおける改宗は、全島会議の議決に基づく政治的配慮の結果でもあったが、ベトケは、このような便宜的方策のみならず、ドイツ同様スカンディナヴィア諸国においても、ゲルマン異教徒の抵抗を押さえるために、彼らの改宗にさまざまな仕方で強制力が用いられたことが、結果的に「ゲルマン的要素とキリスト教的要素との混合形態」という意味での「シンクレティズム」が、古代北欧民族の改宗を特徴づけることになったと考えており、さらにこの「シンクレティズム」がある程度克服された後には、よりラディカルに「大規模なキリスト教のゲルマン化」が発生したと主張しているのであるが、ベトケのこのような所見は、北欧人における比較思想的行為としての改宗を考察しようとする筆者にとっては、極めて示唆に富む発言であり、以下における筆者の記述は、結局基本的には、ベトケの指摘する北欧人の改宗における「ゲルマン的なもの」と「キリスト教的なもの」との「シンクレティズム」、「キリスト教のゲルマン化」という「混合-変形過程」論の吟味に向かわざるをえないであろう。

[Ⅳ]                

  ベトケは、すでに指摘した「政治宗教」としてゲルマン宗教の理念がキリスト教に転換された結果、改宗に際してキリストが政治共同体の平和が託された民族の、国家の神として把握され、古いゲルマン異教に代わって政治的な自己主張のためにキリスト教が用いられるところに、このような「シンクレティズム」の発生原因を看取している。北欧に限定されず、ゲルマン世界全体に共通すると見なすこの現象を綿密に検証しつつ、彼はさらにこんなふうに考えている。本来はゲルマン異教の主神オージンOdinnWodan南ゲルマン民族])の別名「勝利の神、勝利の主」SiegesgottSiegesherrといった古い表象がキリストに移され、「このような勝利の神として賛美することによって、異教ゲルマン精神によるキリストの神話化と政治化とが結びついているのは歴然たる事実であって」(6)、「キリスト像の政治化と神話化の認識がまさしく改宗史にとっては最大の意義を有する」のである。なぜなら、「この認識が始めて文献資料の妥当な解読の前提となる」からである。かくて、ベトケによれば、本来は完全に区別されるべき「ゲルマン的-神話的地層」と「キリスト教的-神学的地層」でありながら(7)、前者が後者に移行・転換される仕方で両契機が共存するところに「シンクレティズム」のみならず、「キリスト教のゲルマン化」の現象が生起するのである。なお、その際ペトケは、改宗期の「ゲルマン初期キリスト教」の資料から「ゲルマン異教」への「逆推理」を行って、福音に対する素因をゲルマン人がすでに改宗前に所有しており、「異教信仰自体の中にキリスト教に到る素因の充足・完成」を見るような転倒行為を行ってはならないことを厳しく注意している。

  もっとも、ベトケは否定するのであるが、C.M.クサック女史は、ゲルマン民族改宗史に関する最新の文献でもある彼女のシドニー大学宗教学学位論文『ゲルマン民族の改宗』において、アイスランド人の初期キリスト教が、他のゲルマン民族のそれ同様「混合主義的」たる所以を、全島会議の結果として古い宗教が公的には差し止められたにもかかわらず、私的にはなお暫時生贄の慣習が守られた事実の中に指摘し、アイスランドに強力な中央集権が存在せず、また信仰箇条も教義も有しなかったというゲルマン異教の特性が、この宗教の残存とキリスト教のルーズな受容と解釈を可能ならしめたと見ている。なお、クサック女史は、このような「シンクレティズム」は、同時代のアイスランド民衆の中に発見しうるのみならず、さらにキリスト教徒としてスノリ・ストゥルルソン(Snorri Sturluson c.1179 - 1241)がゲルマン宗教に深い関心を寄せることによって成立した『新エッダ』(c.1220)が「シンクレティズム」の色彩を色濃く湛えているのは当然として、さらに『古エッダ』において生贄の樹にわれとわが身をぶら下げたオージンの像と十字架上のイエス像を重ね合わせ、さらに善と光の神バルドルとキリストとをダブらせることによって、そこにゲルマン異教における「シンクレティズム」の存在を見ようとする一部の研究者の試みに留意しつつも、これらのイメージの創造にキリスト教の影響があったとは考えられないとしてとして、こういった試みには懐疑的である。しかし、彼女によれば、中世ヨーロツパ文学中最高傑作と称えられる『古エッダ』冒頭の詩編『巫女の予言』Voluspaa=Volva + spaa[予言])の場合事情がまったく異なるという観点から、特にこの詩編の後半のラグナロクの場面に登場する宇宙の「破滅」と「復活」の場面を根拠として、異教的・ゲルマン的な価値観とキリスト教的価値観との混合という「シンクレティズム」が,さまざまなゲルマン民族における「改宗」の当然の帰結を実証していると主張している。

[Ⅴ]

  ゲルマン宗教研究史上最高の碩学とも呼ぶべきオランダのヤン・ドゥ・フリースは、『古代ゲルマン宗教史』において、「当時の北欧民族は純粋に異教的でもまたキリスト教的でもなかった。これら二つの信仰表象の結合が独自の混合形態に導いたことは間違いない」(8)、と語ることによって、ベトケやクサック同様北欧民族における改宗を「シンクレティズム」によって特徴づけている。この点をフリースは、改宗期には古い習慣はそれがキリスト教の要請に適用される場合にのみ維持できたのであり、異教的なものが漸次形式のみになって、内容はキリスト教的なものによって満たされるという「混合形態」という意味での「シンクレティズム」としても把握している。そして、この混合形態の特徴は、相互に異質的な要素が外面的に併存しているとか、キリスト教的なものが異教的な迷信にくっついているといったことにあるのではない。アクセントの置き方こそ違え、異教的なものとキリスト教的なものとが同一の感情を共有しているのである。換言すれば、11世紀を中心とした北欧ゲルマン民族の改宗を決定的に特徴づけている「シンクレティズム」とは、フリースの言う、まさに「キリスト教的な感情・表象と異教的な感情・表象との合奏」なのである。「(古代北欧の)人々は何千本かの糸によって古い世界と結ばれていた。前時代は一挙には止揚されなかったのである。異教時代の詩の伝統が可能だったのは、このような異教的心情の産物に対して敵対的に背を向けないで、逆に神話的伝承を守り続けたからであり、紛い物に対するキリスト教の憎悪も、過去の遺産に対する愛情を押え付けることができなかったのである。われわれの最も重要な資料が保持されているのは、このような心の広い寛大さのお陰である」(9)。

  しかしながら、フリースは、「シンクレティズム」の内実をこのように「キリスト教な感情・表象と異教的な感情・表象との合奏」という二つの宗教の調和的関係を意味するものと解する一方では、ベトケやクサックと異なり、『巫女の予言』の詩人に対しては、この「シンクレティズム」というタームを適用していないのである。それは、なかんずく「心の中でキリスト教と異教との葛藤が激しく荒れ狂った人間」(10)として把握しているからである。しかしながら、その内実を二つの宗教の調和関係として捉えるか葛藤関係として理解するかの違いこそあれ、この点の認識を前提としさえすれば、何れの場合に対しても「シンクレティズム」のカテゴリーを適用することは不可能ではないと考えられる。

[Ⅵ]

  デンマークの宗教史学者ウィルヘルム・グレンベックによれば、北欧人にとっては、「中世の歴史というのは、いかにしてキリスト教が定着し、ますます純粋な形を取っていったかの物語ではなく、北欧民族的要素と教会的要素とが一緒に働いて、精神生活及び宗教の有機的な全体像が前進して行く方向線を作り出した、その不断の成長の物語なのである」(11)。そして、このように「北欧民族的な要素」と「教会的要素」、「ゲルマン的なもの」と「キリスト教的なもの」との共存と共働によって誕生した精神的な全体像としての「新たな一つの宗教」であるという、グレンベックのこのような理解において、「シンクレティズム」概念の内包は、その最も深遠な意味を披瀝しているといってよいであろうが、このようなグレンベックの見方は、北欧神話中最大の雄編『巫女の予言』を、まさしく「ゲルマン的なもの」と「キリスト教的なもの」との「シンクレティズム」によって成立する「一つの新しいし宗教」を告知するものという画期的な見解の中に告知されている。彼は言う、「『巫女の予言』においてわれわれは、その思想が強烈な人格的色彩で染め上げられ、それゆえ疑いもなく同時代人の平均的思想を超出する一人の詩人に遭遇する。この詩はキリスト教と異教両者の外部にある新しい宗教の記念碑と称して然るべきである。この宗教は、最も本来的な意味では恐らくただ一人の人間の中でしか生命を保っていなかったものであろう」(12)。

  かくて、一般には「シンクレティズム」なるタームをもって特徴づけられるゲルマン異教からキリスト教への改宗が、個人の最も深刻な場合、まさに「心の中でキリスト教と異教との間の葛藤が荒れ狂った」一人の単独者の苦悩に満ちた「比較思想的行為」に他ならなかったことを証明したものこそ、教養高き異教神官と推定されている『巫女の予言』の作者に他ならないのである(13)。そして、この異教神官の主体的・実存的葛藤は、審美的なものと倫理-宗教的なもの間で激しく恐れ戦いた思想家キェルケゴールの苦闘によって継承されており、さらには世俗的立場と宗教的立場との狭間を彷徨する孤独な現代人の窮境の中にも、ありありと映し出されていると言えよう。

  なお、上記「改宗」の問題に続いて、北欧神話とキェルケゴールの関係、古代ゲルマン民族における「王権」、現代北欧におけるデモクラシー論、福祉論等を「北欧学」のさらなる主題として紹介する予定である。

1Bronsted, Johannes: VikingerneKbh. 1969, s.236f..

2Strom, Folke: Nordisk Hedendom. Tro och sed i forkristen tid, Goeteborg 1967, s. 262.

 (3Groenbech, Vilhelm: Die Germanen , in: Lehrbuch der Religionsgeschichte von Chantepie de    la Saussaye, Tuebingen 1976, S.81.

4Herte, Adolf: Die Begegnung des Germanentum mit dem Christentum, Paderborn 1935, S.42.

5Baetke, Walter: Die Aufname des Christentums durch die Germanen, Darmstadt, 1959, S.25.

6ibid. S.49.

7ibid. S. 51.

8Vries, Jan de: Altgermanische Religionsgeschichte, Bd. 2, Berlin 1970. S.429.

9ibid. S. 447.

10ibid. S. 444.

11Groenbech. op. cit. S.85.

12ibid. S. 90.

13『巫女の予言』については、拙著『北欧神話・宇宙論の基礎構造ー<巫 女の予言>の秘文を解くー』白凰社1994年を参照されたい

  (本稿は次の論考に若干の修正を施したものである。「北欧民族における比較思想的行為としての改宗―ゲルマン宗教からキリスト教へ」(『比較思想研究』第29[ 20036])

2008/01/01

[小さなエッセイ]北欧の街角でー二人の少女のこと

  所属機関から在外研究の機会を与えられて、19894月から9月までデンマークのコペンハーゲンに滞在し、さらに10月からはスウェーデンのウプサラに居を移して、年末までの三ヶ月をそこで過ごした。短期間ではあったが、コペンハーゲン大学キェルケゴール研究所とウプサラ大学哲学研究所の好意で、まずまずの成果を挙げることができたのは幸運であった。なおウプサラには予定では翌年3月まで留まるはずであったが、筆者が身元引受人となって入院させている叔母が危篤に陥り、病院の要請でやむなく帰国を早めることになった次第である。病人はそれから半年の闘病の後遠くへ旅立っていった。

  デンマークでは、ロンドンで発行されている朝日新聞国際版(当日の午後にはコペンハーゲンで発売される)の訃報欄を通して、親しいわけではなかったが出発前には元気だった同僚の死亡を知り、同年齢だっただけに、大きなショックを受けた。

  とはいえ、このような愕然とした悲しい思いの反面、ささやかながら、ある感動的な体験にも恵まれたことを報告しておきたいと思う。無論、小文に目を留めて下さる方は、当の感動のあまりに前学問的な幼稚さに苦笑されるであろうが、筆者自身にとつては忘れ難い体験となったので、これについて若干記してみたい。

  正確な日付は忘れてしまったが、筆者がコペンハーゲンに到着して一ヶ月ほど経った5月中旬であったと記憶する。丁度宮崎某の猟奇的な連続幼児殺害事件が日本中の関心を集めていた時期である。その日の朝、筆者も宿舎近くのバス停で、前日買った朝日新聞国際版のこの事件に関する記事を夢中で読み返していた。その時である。幼児特有のデンマーク語で[おじちゃん、ボール遊び知ってる?」、という何とも愛らしい小さな声が耳元で聞こえたのである。見れば、声の主はゴムボールを手にした、文字通り人形のような、むしろ人形そのものといってもよい、56歳の可憐な少女であった。新聞記事で、「常々知らない人とは口を利かないようにと言い聞かせていましたのに」、という保育園の先生の悲痛な言葉を読んだばかりの筆者が、まったく逆に見知らぬ少女から話しかけられた時のとんでもない狼狽と困惑をご想像戴けるであろうか。あたかも何か後暗いことをしでかして、咎められるのを恐れる者のごとく、思わず腰を浮かして辺りを見回し、一瞬逃げ出す格好になったのは、思い出すだに赤面の至りである。少女とはバスが来るまで数分間言葉を交わしたのは確かだが、何を話したかはまったく記憶にない。ただただしどろもどろに対応したのを覚えているだけである。

  やがてバスが来た。当然少女も同乗するものと思って乗車を促したが、彼女は腰を上げなかった。たまたまバス停に遊びにきていたに過ぎなかったのである。一瞬の興奮の余韻に浸りながらバスの座席からぼんやりと外を眺めていたとき、筆者は不覚にも目に涙の滲むのを抑えることができなかった。それは、祖国の新聞の奏でる人間と大人への抜き差しならぬ不信感とは逆に、年配の異相の外人に向かって、何ら躊躇することなく信頼に満ちて話しかけてくる少女の無邪気さ・純粋さへの感動からであった。       

  さらにこのささやかな体験の三ヶ月後の8月末、コペンハーゲンから電車で40分ほどの郊外へ出かけた帰りのことである。夜9時頃帰りの電車に乗るためにヴェドベクという田舎駅の待合室のドアを開けた途端、無人と思われた広く薄暗い奥の方から、「ヘルシンガー行き(下り) 何時何分、コペンハーゲン行き (上り)は何時何分よ、おじちゃんはどちらに乗るの?」、と尋ねながら話しかけてくる元気な声が聞こえてきたのである。前の経験があるので、さほど仰天はしなかったものの、それでもうす暗がりを通して見ると、いかにも薄着の11、2歳の女の子である。8月末とはいえ、夜ともなればデンマークのこの時節の気温は、日本の10月中旬の底冷えに近い。他の待合客もおらず、冷え冷えとした暗い構内の寂しさに耐えかねて話しかけてきたとは推測されたが、それにしても相手はどこの誰とも分からぬ外国人である。恥ずかしながら、少女の態度は日本人の筆者にはまったく想像の外としか言いようのないものであった。サッカーの試合で遅くなってしまったというこの少女とは30分以上も話したであろうか、驚くべきことに、その間少女が筆者に対して不信感はもとより、恐れ・警戒心を抱いている気配はまったく感じられなかった。それどころか、別れ際には、ポケットの小銭を見せながら、「おじちゃん、わたしこれしかお金持ってないから1クローネ(20円程度)頂戴」、とおねだりするほどの天真爛漫さであった。勉強よりサッカーが好きというこの少女に、「でも将来はしっかり勉強してコペンハーゲン大学に入るんだよ」と、何とも「日本的な」説教をした時の彼女の困惑した顔が、今更ながら慙愧の念とともに蘇るのである。                           

  デンマークで、性的ないたずらを目的とした子供の誘拐事件について見聞したことはなく、ましてそれが殺害にまで発展するといったことは論外であろう。少なくともこの国では子供の間に大人と人間への信頼は失われておらず、彼らの中には、皮膚の色など物ともしない逞しい[ヒューマニズム]が、幼児期から見事自然体として根付いていることを如実に証明してくれたのが二人の少女であった。

  もとより彼女たちをめぐる筆者の経験は、取り上げる要のない下らぬものではあるが、しかし「北欧的ヒューマニズム」の本質の何たるかを探.ることをライフワークとする筆者にとっては、実に貴重な指針と自信を与えてくれるものであった。今改めて二人の可愛い天使に感謝したいと思う。

   (明治大学政治経済学部資料センターニュース、No.4748合併号[1990.3]所収)