筆 者はこれまで、キェルケゴール・北欧神話・ウプサラ学派の価値ニヒリスムの三者を主要な研究対象としてきたが、それを基盤としてさらに筆者の関心は、現代 世界の抱える緊急の思想的課題 - 宗教・医療・環境の問題 - を解決する方向を、北欧思想圏の哲学的思惟を通して探るという目論見へ進んでいった。そ して、極めて貧しい試論には留まるが、それぞれの対象・主題について研究成果を発表することができた。しかし、現在筆者の願望は、従来の考察を一層ラディ カルに深めるとともに、そこからさらに浮かび上がってくる北欧固有の諸問題に対して総合的な検討を加え、その成果を体系的に「北欧学」という新たな学問に 結実させたいという方向に向かっている。筆者に残された時間は多くはないが、それへの積極的な挑戦が、ライフワークの主たる部分を占めることになる。
この場では、筆者がこれまで上梓した著作と翻訳を、研究業績として紹介すると同時に、続いて筆者がそれぞれの機会に発表してきた比較的短い論考を用いて、 必ずしも全体が体系的に組織されているわけではないが、現在筆者の念頭にあるかぎりでの「北欧学」なるものの構想内容と、想定される具体的な主題につい て、述べてみたいと思う。

2009/12/29

「北欧学の主題」-[Ⅲ]スウェーデンの政治哲学(2)

  ヘルベルト・ティングステーンのデモクラシー論
    一「イデオロギーの死」から「超イデオロギー」へ一


  1.ティングステーンー「逆説的な」問い・人・業績ー

  1998年7月13日の参議院選挙が58.8パーセントという予想外に高い投票率を記録して自民党惨敗のニュースが流れたとき,筆者はちょうど本稿執筆のためスウェーデンの政治思想家ヘルベルト・ティングステーン(Herbert Tipgsten1869-1973)の著作に眼を通していたが,たま「たま彼の比較的初期の1937年の著作で,第二次世界大戦前のヨーロッパ諸国民の投票行動を,統計資料の比較政治学的研究を通して緻密に分析した著作『政治行動・選挙統計研究』の中に,彼の次のごとき興味深い所見を発見した。「代議員制度にとって最大多数の住民が選挙に参加するのが望ましいというのは,一般にデモクラシー諸国で好まれる古い考え方であるが,現在ではもはや論なく正しいものとしては受入れられない。別の関連では,非常に高い率の投票参加
が,ときには,デモクラシー制度の危機の兆候たる可能性や,この制度の機能を困難ならしめる可能性もあることが証明されよう」①。
  高い政治的参加がデモクラシーの危機的状況の兆候たりうる恐れがあるとしても,これによってティングステーンが「つねに」そうだと主張しているわけではないというのはB.O.ボストレームの指摘する通りであろう。「高い率の投票行為がデモクラシーの危機に基づく場合もありうる」②,ということにすぎないのである。だからといってそうである必要はないし,まして高度な政治参加自体がデモクラシーの危機であるわけでも,危機を引き起こすわけでもないのは当熱である。だが,それにしても前回95年の参院選の44.5パーセントを14パーセント上回る今回の高い投票率は,ティングステーンの論理に照らした場合,どのように解すべきであろうか?わが国デモクラシーの危機的状況を暗示するものなのだろうか?
  政治活動の高さがデモクラシーの危機の指標ともなりうるという主張も一見極めて逆説的であるが,このような背理的な見方の背後には,ティングステーンの「成功せるデモクラシー」(den lyckliga demokratien)は「イデオロギーの死」(ideologiernas dod)をもたらし,「脱イデオロギー」(videologi)の営為を媒介として「超イデオロギー」(6verideologi)の次元を構築するという独自の尖鋭的な主張が控えている。言うまでもなく,この主張はティングステーンの政治哲学的根本思想の一端をなすものであり,なかんずく彼のデモクラシー論の特質を最も鮮明に披歴するものであるσ
  本稿は,このような「イデオロギーの死」「超イデオロギー」といったティン・グステーン固有のタームの分析・検討を通して,彼のデモクラシー論の独自性を明らかにすることである。なお,このテーマに関してはもちろん,ティングステーンの全体像についても,まとまった研究は現在のところ本邦には現れていないようである。
  本題に入る前に,H.ティングステーンの人と業績について若干言及しておきたい。
  政治学界に身を置いていない筆者には,ティングステーンが政治学者・政治思想家として国際的にどのように評価され,位置づけられているかは必ずしも'分明ではないが,存命中彼が祖国スウェーデンにおいて「偉大な知識人」として不動の地位を獲得し,現在においてもなお隠然たる影響力を行使していることは疑うべくもない事実である。彼は1935年から46年までストックホルム大学政治学教授,続いて46年から60年まではスウェーデンの最も重要な日刊新聞の一つ,『ダーゲンス・ニューヘテル』(Dagens Nyheter)の編集長を勤めるかたわら,生涯にわたって多彩な著作活動を展開している。筆者の手元にある資料によれば③,自伝を含む31冊余の著作と上記『ダーゲンス・ニューヘテル』紙及び各種の専門誌を中心に約80編の論文を発表している。全体を貫く基本的テーマはデモクラシー論とイデオロギー論と言って差支えないであろうが,本稿のテーマとの関連でその内敢えて代表的な著作三っを選ぶとすれば,第二次世界大戦前に発表した2冊計3部のデモクラシー論の大著,戦争直後に刊行された大部ではないが画期的な1冊のデモクラシー論が挙げられよう。その何れもが,国際的視野からしてもティングステーンが第一級の卓越した政治理論家・政治思想家たることを証明する刮目に値する業績と言えよう。

  (1)『デモクラシーの勝利と危機一憲法政策の発展1880年~1930年』
    (Demokratiensseger och kris.Den forfattnings politiska utvecklinger.
1880~1930,Sthlm.1933)。
  (2)「スウェーデン社会民主主義イデーの発展』2巻(Den svenska social demokratiens id-
utveckling1-2,Sthlm.1941)。
  (3)「デモクラシーの問題』(Demokratiensproblem,Sthlm.1945)。

  実に菊判で700頁を超える(1)は,ティングステーンがストックホルム大学政治学講師時代に,「われわれ自身の時代の歴史1880年~1930年」叢書の1巻として刊行されたものであり,第一部においてデモクラシーと独裁制のイデオロギー上の対決を総論的・体系的に考察することによってデモクラシーの本質を問い,第二部においてこの視点を踏まえてフランス・イギリス・ドイツ・イタリー・ロシア・北欧諸国はもとより,日本・中国を含む同時代のほとんどすべての世界主要国における国家体制を歴史的・各論的に分析・検討しでおり,第二次世界大戦に向かう世界各国政治の危機的動向を比類のないスケールと精密さで考察した,まさに記念碑的業績である。
  (2)も2巻合せて総計実に900頁余の大著であるが,この書の有する意義については,英訳本に序文を寄せたイギリスのスウェーデン政治研究家R.F.トマッソンの次の評言がすべてを語っていよう。「1880年代・1890年代の危機の始まりから第二次世界大戦まてでのスウェーデン社会民主党のイデオロギーの変質に関するティングステーン教授の研究は一いかなる基準に照らしても一西欧において最大の成功を収めたスウェーデン社会民主党のブリリアントな叙述である… … 『スウェーデン社会民主主義イデーの発展』は,党の印刷物,党議の記録,国会議事録,党指導者の講演や著述,その他の公開・未公開の原資料のほとんど完壁とも思われる研究に基づいている。本書が1941年に登場して以来,これまでスウェロデン社会民主主義の始原と発展に関する並びなき権威であった」④。インディアナ大学政治学教授T.ティルトンによれば,「イデオロギーの死」文献へのスウェーデン最初の貢献であり,この国社会民主党のイデオロギーにおけるマルクス主義社会主義から福祉国家主義(welfarestatism)への変化を強調するところにこの著作の特質がある⑤。
  (3)についても専門家の評価は極めて高く,例えばデンマ.一クの代表的な法哲学者V.クルーセはずばり,「現代の卓越したデモクラシー信奉者の中で特筆すべきはヘルベルト・ティングステーンであり,彼の『デモクラシーの問題』はミルの『自由論』にも匹敵しうる」⑥,と論評しているが,何れにせよこの書が,翌年の1946年に現れたコペンハーゲン大学法哲学教授アルフ・ロスの『なぜデモクラシーか?』(Hvorfor demokrati?)と並び,戦後北欧を代表する傑出したデモクラシー論であることには変わりない。岡野加穂留氏の監訳がある⑤。
  この他,保守主義・ナチズム・ファシズム・コミュニズムなど現代の代表的なイデオロギーを徹底的な批判のまな板の上に乗せ,そこからデモクラシーの本質を開示しようとした多くの著作があるが,その内でも特に本稿が注目・依拠するのは,「イデオロギーの死」のイデーを初めて鮮明にした論文集『イデーから牧歌へ一成功せるデモクラシー』(Fran ideer till idyll,Sthlm.1966)である。なお,この論文集に対して先駆的意味をもつ著作が,1940年のストックホルム大学で行われた有名な講演を中心に纏あられた同種の論文集『イデー批判』(ld6kritik,Sthlm.1941)である。後者は進歩思想・フランスのサンジカリスムとナチズム・唯物史観といったイデオロギーを用いて「イデー」というものを徹底的に学問的・客観的に追求したものであり,前著についてはその裏扉においてこのように紹介されている。「本書においてヘルベルト・ティングステーンは,現代西側デモクラシーのイデオロギーはその意義を猛烈に減らしてしまい,根本的な政治的対立は衰退して,政治はますますエキスパートと広告専門家の問題になってしまった,宣教の時代は過ぎて,サーヴィスの時代になったことと主張しているのである」。そして,本稿が主題とするのは,「イデオロギーの死」というラディカルな独自のタームで表現される,スカンディナヴィアのそれを含む現代「西側」デモクラシーとイデオロギーの意味喪失との関連なのである。
  以上の5点の他にもティングステーンには王権・外交政策・イスラエル・アメリカ,さらに生死や神と祖国の理念に関する多くの著述があり,さらに貴重な時代証言としての4巻にわたる自分史が存在するが,何れにせよこれらの著作を筆頭に各種の論稿においてティングステーンが展開した政治哲学的思想はスウェーデン国民に巨大な感化を及ぼすとともに,彼自身「典型的な仕方で時代精神の重要な特質を具現する思想家」⑧という意味での卓越した存在意義を獲得することになったのである。ティングステーンの親友であるインゲマール・ヘデニウスが,「彼(ティングステーン)が亡くなったとき,スウェーデンは一人の偉大な叡智を失った。否,それ以上に,野辺に送ったのは一つの時代であったのである。彼の残したの空洞の何と大きいことか!」⑨,と語ったのも,ティングステーンがまさしくこのように20世紀スウェーデンの政治と文化の世界の中心に位置し,長期にわたってこの国の政治的・文化的論争の大部分を支配したからであった。ティングステーンをこのようにスウェーデンの時代論争の問題・方向・慣行を広範囲に規定する「知的巨人」として登場せしめる上で決定的な役割を演じたのは,ティングステーン自身の告白によれば,1920・30年代のスウェーデン知識人の場合同様に,ウプサラ大学実践哲学教授アクセル・ヘーゲルストレーム(Axel Hagerstrom 1868-1939)の「価値ニヒリズム」(vardenihilism)の哲学であった。そして,彼のみならず他の多くのスウェーデン知識人に与えた最も強烈な影響は,なかんずくこの哲学の掲げる二つの理念契機において際立っていた。それは,神や客観的価値の存在を否定する倫理的ニヒリズムであり,哲学及び科学の形而上学的構築を拒否する理論的ニヒリズムである⑩。ティングステーンは師ヘーゲルストレームのこの立場を自らのものとして受容し,
それに由来するスウェーデン固有の哲学・法学・政治学・経済学を包括する広範な思想的潮流・北欧学派の代表者の一人となったのである。
  注
①Tingsten,Herbert:Political behavior,Londonl937,p.230.
②Bostr6m,Bengt-Ove:Samtal om demokrati,Goteborg1988,s.150.
③Lundborg,Johan:Ideologiernas och religionensdod.Enanalys av
Herbert Tingstens ideologi- och religions kritik,Lund1991,ss.183-187.
 ④Tomasson,RichardF.:Introduction to the swedish socialdemocrats.
Their ideological development,trnsl.byG.FrankerandP.Howard-Rosen,NY.1973,p.vii,
⑤Tilton,Tim:The political theory of swedisch social democracy,Oxford 1990,p.148f.
⑥ティングステーンの「デモクラシーの問題』の裏表紙に記載されたVinding Kruseの書評から。
「ティングステーンによる民主政治の弱い面の批判と将来に対する不安は徹頭徹尾客観的であり,現実に
則したものだけがもつ大変な重みがある。多くの独断的・熱狂的な民主政治の信奉者と違って,ティン
グステーンは民主政治を決して決定的なものとは見なさない。逆に,彼にとって民主政治とは一つの問   題なのである。このことはすでに彼の本のタイトルに表れている。民主政治はあくまで最大の困難を数   多く含む歴史的実験であり,その未来は不確実である」。
⑦H.ティングステーン:『現代デモクラシーの諸問題』人間の科学社1974。
⑧Nordin,Svante:Fran Hagerstrom till Hedenius.Den moderna svenska filosofin,
Lund. 1987,s.203.
⑨Hedenius,Ingemar:Herbert Tingsten.Manniskan och demokraten,Sthlm.1974.s.81.
⑩(10)ヘーゲルトレームの「価値ニヒリズム」については,次の拙著がある。
   『スウェーデン・ウプサラ学派の宗教哲学: 絶対観念論から価値ニヒリスムへ』、東海大学出版会
    2002年。

 

  2.「イデオロギーの死」以前
    -「超イデオロギー」・「水平化」・「緊張緩和」-
 
  ティングステーンが「イデオロギーの死」というテーゼとの関連でデモクラシー論に集中的に取り組むのは,実際には「イデーから牧歌へ一成功せるデモクラシー一』を刊行した1960年代半ばであり,これ以前の著作には単なるタームとしてもこの特異な複合概念が挙げられた形跡はない。しかし,「超イデオロギー」の理念を筆頭に,「イデオロギーの死」の理念へと結実・収敏してゆく,あるいはそれを導出する他の諸理念はすでに登場しており,われわれとしては『イデーから牧歌へ』における本格的な「イデオロギーの死」論に立ち向かう前に,それに対して前哨的な意味をもつ幾つかの概念とテーゼに言及しておくこと.にする。
  ところで,ティングステーンが常時複数で用いる「イデオロギー」(ideologier)とはそもそも何なのか?状況に応じてこの概念にさまざまな内包を付与するために,それを明確に規定することは必ずしも簡単ではないが,彼が最初にその厳密な定義を試みた1939年の『保守主義のイデー』によれば,「イデオロギーとは,政治行動に駆り立てるであろうと見なされる,あるいは一般にこの役を演じると仮定される表象体系のことである」①,と言われ,2年後の『イデー批判』では,「イデオロギーなる語は極めて体系的な全体を構成し,'行動に対して普遍的で明確な指示を提供すると考えられる政治的表象の集合に対して留保される」②,と語られている。この引用文の直後で,ティングステーンはさらに「これについては明白な定義があるわけではなく,(イデオロギーという)語の使用の支配的傾向を示唆するために語ったにすぎない」,と付言している。これら二つの引用文には,「政治的行動に導く表象」と「行動一般を左右する政治的表象」といった違いがある
が,ティングステーンのイデオロギー論の精緻な分析を試みたJ.ルンドボルイは,「当然後の定義がティングステーンの見解のより厳密な解釈として把握されなければならない」③,と主張しつつ,「さらに彼の綿密な作業に基づいてティングステーンのイデオロギー概念はほぼ次のように定義するのが正しいであろうとしている。「根本的な現実判断と価値判断から構成され,ある程度の持続性を保持しっっ政治行動を左右する機能を有する信条集団… …この(極めて広義な)概念枠には古典的な自由主義・保守主義・社会主義の立場も純粋に私的な政治的立場も含まれる」④。ティングステーンにおけるイデオロギーの概念の意味については,われわれとしてもルンドボルイのこの規定を十分に受け入れることができる。このことを前提とした上で,本来
の作業を継続することにしよう。
  先ず,隣国ドイツにナチ政権の樹立を見たのと同じ1933年に刊行された上記(1)の『デモクラシーの勝利と危機』では,第一次世界大戦後ヨーロッパ諸国で異常とも思えるエネルギーによってデモクラシーの優位性を証明しようとする試みが行われ,多くの国において普遍的な見るべき勝利を納めた結果,「デモクラシーという言葉は,かつてあ"神"や"自然権"のように,政治的体系構築の際の礎石となった」⑤,と主張されている。さらに以下のごとき発言からも,デモクラシーがまさに各種の「イデオロギー」を超出している立場と見なすティングステーンの基本的姿勢が窺われよう。「現代におけるデモクラシーのイデーの暗示的な力は,デモクラシーという言葉の中に支えを得ようとする独裁政治の運動の営為によって表現されている。この営為はコミュニズムにおいて最も鮮明に登場する… … ファシズムも最近では"真の"デモクラシーを代表していることを要請するようになった」⑥。
  そして,デモクラシーのこういつた脱乃至超イデオロギー的性格に関しては,実際に「脱デモクラシー」「超イデオロギー」というターム自体は用いられないものの,41年の『スウェーデン社会民主主義イデーの発展』の結論部において,スウェーデン・社会民主主義が過去60年間に遂げた変化を総括するに際してのティングステーンの言辞によっても,彼が当時すでにそういった立場に極めて近い視点に到達していたことを窺わせるであろう。「イデオロギー論争の過程で社会化は一般福祉によって,階級闘争は国民の家(folkhemmet)によって,戦術上の手としてのデモクラシーは最高原理としてのデモクラシーによって,権力の完全掌握は他の権力との妥協・合意・協力によって,国際主義は国内的な視点によって,さまざまな宗教的・人道主義的民衆運動への無関心と不信は評価と相互理解によって,取って代られたのである… … しかし,だからといって,かっての社会民主主義の出発点となった基本的表象と目標が放棄されたわけではない。進歩と啓蒙に対する信仰,政治活動は個人の幸福と自由にとって肝要であり,平等のために活動し,人間間の明確な社会的不平等を制限しようとする欲求,人間の自由のより広範な枠組みはより大きな繁栄と文化によって創造されるという信仰,国民の平和とより緊密な関係に対する欲求は,・いまなお残存しているのである。通常リベラルと称されるこれらの理念は,現代スウェーデンの主要な政党すべてによって支持されている。かくて社会民主主義独自のイデオロギーといったものは存在しない。わが国における主要な政治的方向の間にある差異は,本質的に,各政党が他の政党の積極的に表明しない幾つかの要求を格別精力的に追及するという意味での視点の違いに存在するのである。図式的に言えば,現在の社会民主主義が他の政党から区別される根拠となるのは,全体として社会改革と国家の介入に特別集中するという点である」⑦。つまり,こ'こでティングステーンは,スウェーデン社会民主主義の力点が社会改革と国家介入に置かれていることを指摘しつつも,60年間の政治的苦闘の
結果,かつて社会民主主義固有の「基本的表象と目標」であったものが,現代では,スウェーデンの主要政党すべてが支持・共有する政治的理念となっており,その意味でそれらはまさに各政党のイデオロギーのそのものを超出していると考えているのである。
  だが,第二次大戦終結の1945年発行の『デモクラシーの問題』の中にははっきりと「超イデオロギー」のタームが登場し,前著においてはなお不分明に留まっていたこの概念の内包が明瞭に定義されている。「デモクラシーへの信仰は,例えば保守主義・自由主義・社会主義のごときものと同じ意味での政治的見解ではない。それが意味するのは,国家統治の形態についての,政治的決定のためのテクニックについての理解であって,国家の決定内容や社会構輩にっ陸ての理解ではない。だから,デモクラシーは一種の超イデオロギーと見なすことができる。つまり,デモクラシーはさまさざまな政治的見解に共通しているという意味においてである。民主主義者でりながら,同時に保守主義者・自由主義者・社会主義者なのである」⑧。
  このように,デモクラシーが保守主義者・自由主義者・社会主義者によって共有されうる「超イデオロギー」の政治的立場を意味するというティングステーンの見解は,『デモクラシーの問題』より10年後の1955年に英文で発表され,特にイギリスとアメリカの政治学者から非常に注目された論稿「スウェーデン・デモクラシーの安定性と活力」(Stability and vitality in Swedish democracy)においても,異なった視点からではあるが,例えば「価値共同体」(a community of values),「水平化」(levelling)といった概念によっても提出されていると見ることができる。そして,同時にここでは,次なる著作『イデーから牧歌へ』においてラディカルに展開される論点を先取する仕方で,この概念の外延に包み込まれる諸点が多彩に指摘されている。
  疑いもなく世界中で最も成功した実例の一つとして自ら誇るスウェーデン・デモクラシーの特徴を,「国民と防衛」「デモクラシー自体」「国有化」「社会福祉政策と税」「教会と宗教」といった観点から分析したこの論稿において,ティングステーンは,デモクラシーをひとまず「政治的自由の状況下での自由選挙権を通しての統治」,かつ「社会のさまざまな利益団体やカテゴリーが国家の枠内で彼らの要求を主張し,そのやり方で社会的調和に導くことを可能ならしめる」統治形態として規定する⑨。しかし,ティングステーンによれば,第二次世界大戦を契機として,デモクラシーをめぐる論争の傾向と色彩は現代独裁制の勃興,さらにそれのもつ危険と恐怖によって規定されるにいった結果,デモクラシーという統治形態の成功如何は根源的に「安定性と安全性」の尺度で計られるようになったのである。したがって,「成功せるデモクラシー」とは,本質的に,「(イデオロギー上の)大きすぎる相違によって震憾させられることのない,ナチズム・ファシズム・コミュニズムによって脅かされることのない,強力な価値共同体を有する政治体制」⑩を意味するのである。
  このようにも言われている。「スウェーデン・デモクラシーが大成功を収めたことを意味するさまざまな発展は,いろんな仕方で説明できる。過激主義や愚行のあるものは経験や常識を通して信用されなくなってしまった。コミュニズムやナチズムの例はそれらの抑止力としての性格ゆえに有用であった。思弁的・形而上学的理念はその栄光と力を失い,気紛れと極端論の表現に還元されてしまった。かっては憤怒の種であった制度は無害なものになってしまった。このことは君主制と教会の両者に当てはまる。つまり,デモクラシーはいろんな分野で妥協を成し遂げたのである。この妥協は,誰一人狂信に駆り立てることなく,万人に受入れられた。イデオロギー上の,そして現実の経済一社会上の水平化が起り,その結果最も重要な幾つかの点で価値共同体が生れることになる」⑪。そして,スウェーデン・デモクラシーが際立った成功を収めた大きな理由として,ティングステーンは,'この国を特徴づけている「民族的・宗教的同質性」を挙げる。つまり,この国には少数民族は存在せず,宗教グループは小規模で平和的である。「過激な信仰は,この例外的に世俗化された社会では,過激な無神論同様ほとんど無縁なものと見なされる」⑫のである。
  もとよりティングステーンにとっても,「成功せるデモクラシー」のもたらすこのような「価値共同体」の成立と,「イデオロギーと現実」の両者における」「水平化」への方向がスウェーデンに限定されるものではなく,他の多くのデモクラシー国家の共有する政治経済的・社会的現象であることは言うまでもないが,ともあれティングステーンが先の『デモクラシーの問題』の著作においても「スウェーデン・デモクラシーの安定性と活力」の論稿においても,同一の表現を用いながらどこまでも強調するのは,このような「価値共同体」や「水平化」が以前には衝突しあったさまざまな理念間の「一種の無意識的な妥協」を表明し,かつそれを無制約的に前提としているということである。反面,それは,「保守主義的・自由主義的・社会民主主義的要素」をことごとく包撮し,それらの融合から成り立っていることを意味するのであって,まさしくそこに「成功せるデモクラシー」が20世紀初頭の自由主義とも強烈なマルクス主義的社会主義とも載然と区別される所以がある。この場合,当然,イデオロギーの意義は大きく減少し,力点は「政治から行政への,原理・原則からテクニークへの発展」に移されることになる。「価値の一般的な基準が共通に受け入れられれば,国家の機能は政治を「一種の応用統計学として活用するという極めて技術的なものとなる」⑬,と言われる所以である。国家の機能変化に対応して,政党のシステムもその性格を漸次変化させる。「活力の印したる政党内の論争は死滅してきており(forminskas,dying out),政党間の論争を支配しているのは,仰々しい色挺せた原理原則をあげつらいながらも,今日的な状況に規定されて,戦術上の目的を結びつけようとする試みである」⑭。
  このような意味で,ティングステーンによれば,激しいイデオロギー論争で養われた活力は「成功せるデモクラシーの水平化と妥協の状況」の中では維持できない。活力と水平化・妥協とは両立しえないのである。また,安定性を犠牲にして活力を欲することも不可能である。「フランスやイタリーの虚弱なデモクラシー」を羨ましいとは思わないと彼は言う。両国の場合,カトリック教会と強い共産党が相変わらずイデオロギー論争に熱と光彩を提供し続けているからである。さらに,ティングステーンは「保守的偏見と戦闘的理想主義」を焚きつける「民族問題」に苦悩するアメリカ合衆国と比較して,そのような問題を抱えていないスウェーデン国家の幸運に感謝している。しかし,このようなデモクラシーのもたらす政治的イデオロギーの「安定性・水平化・緊張緩和」が,政治の諸問題に個人の参加する度合いが減少することを内含しているというのも,ティングステーンの基本的な考え方であって,われわれが本稿の冒頭で述べた,投票率の高さはデモクラシー制度の危機の兆候たりうるという彼の見解が,この考え方に由来することは改めて指摘するまでもないであろう。
  しかしながら,それにもかかわらずティングステーンは,『デモクラシーの問題』でも,今日の状況下においてはデモクラシーは個人がある程度の政治的見識を獲得し,自分の見解を主張し,社会の出来事に影響力を行使しうるという意味での「人格的自立」を無制約的前提とすることをもとより等閑視しない。デモクラシーが「誰にとっても,どこにおいても実現しうる理想」たる最深の根拠はそこにこそ存在するからである⑮。「スウェーデン・デモクラシーにおける安定性と活力」の論稿末尾では、このことが次のように力説されている。「この(政治の諸問題への個人の)参加がデモクラシーの真の持続の必要不可欠な条件であるとしても,究極的に強調されるべきは,デモクラシーの究極目標は個人の自由を拡大し,彼の独立と有意味的な個人的行動と呼ぶべきものに対する彼のキャパシティーを高めるということである。このことは他の一切の問題を超越する大問題である⑯。
  だが,デモクラシーの本質がかくのごときものである、とすれば,それは必然的にそれ自身のうちに「ある程度和解不可能な要素」を内蔵せざるをえないという「緊張関係」を孕むことになる。『デモクラシーの問題』では,この緊張関係は,個人の次元では「幸福・解放・自己主張」の主体的契機と「変身・連帯・自己犠牲」の社会的契機との間の,端的に言えば「自立性」と「社会感情」という要素間のそれとして,国家統治の内部では「自由の原理」と「多数派支配の原理」との相剋・葛藤として成立する⑰。そして,「スウェーデン・デモクラシーにおける安定性と活力」の論稿によれば,まさに表題の暗示する,デモクラシーの政治形態内部における「安定性」と「活力」との緊張関係である。かくて,この点を踏まえてデモクラシーという政体の抱える根本問題を指摘すれば,ティングステーンの言うように,「安全性や十分な価値共同体を維持しながら,さらなる熱意・より包括的な生き生きとした関心・原理論争・個人的一市民的努力を引き起こすことができるかどうか」⑱、ということになる。
  ティングステーンの「イデオロギーの死」のイデーには,「超イデオロギー」を筆頭にそれに先行し連接するさまさざまなイデーがある。われわれは,デモクラシーの勝利と危機』『スウェ'一デン社会民主主義の発展』『デモクラシーの問題』「スウェーデン・デモクラシーにおける安定性と活力」といった,ティングステーンの代表的なデモクラシー論を通してそれらが具体的にどのように展開されているかを探った。しかし,既述のごとく,「イデオロギーの死」のイデーが実際に固有の独立的な主題として本格的に論じられるのは,1967年に発表された『イデーから牧歌へ一成功せるデモクラシー一』においである。ここで提出されたティングステーンのラディカリズムは,当時スウェーデンにおいて激しい論議を巻き起こした。
 注 
①Tingsten,H.:Konservativaideerna,Sthlm.1939,s.5.
②ibid,:Idekritik,Sthlm.1941,s.9.
③Lundborg,J.:Ideologiernas och religionensd6d,s.33.
④ibid.s.4Lなお,ティングステーンにおけるイデオロギー論の論究は,デモクラシー論同様,別個に扱わ
れるべき重大な問題であり,本稿著者自身も自分に残された課題と考えている。ルンドボルイの上掲著
『イデオロギーの死と宗教の死。ティングステーンのイデオロギー批判と宗教批判』は,その点で貴重な2 次資料となるが,彼の独特の視点ゆえに,ティングステーンにおけるイデオロギーとデモクラシーとの関係
についての分析は極あて不十分なままに留まっている。
⑤Tingsten,H:Demokratiens seger och kris.Den forfattningspolitiska utvecklingen
1880-1930,Sthlm.1933,s.118
⑥ibid.s.117.
⑦Tingsten,H.:Den svenska socialdemokratiens ideutvicklingII,s.418.
The swedish socialdemocrats.Their ideological development,trnsL by
G.FrnkelandP.Howard-Rosen,NY.1973,p.707ff.
⑧Tingsten,H.:Demokratiens problem,Sthlm.6.upplag.1969,'s,43.岡野監訳「現代デモクラ
シーの諸問題』人間の科学社1974年49頁。なお本文中の訳語はこの訳書のものと同一ではない。
⑨Tingsten,H.:Stability and vitality in swedish democracy,in:Political
Quarterly,VoL26,p.140.
⑩ibid.p,146
⑪ibid.p.146
⑫ibid。p.146.
⑬ibid.p.147.
⑭ibid.p.148.
⑮Tingsten,H.:Demokratiens problem,p.159.岡野訳211頁。
⑯Tingsten,H.:Stability andvitalityinswedishdemocracy,p.151.
⑰Tingsten,H.:Demokratiens problem,s,159.岡野訳211頁。
⑱(18)Tingsten,H.:Stabilityandvitalityinswedishdemocracy,p.149.


   3.「イデオロギーの死」一デモクラシーの生成一

  ティングステーシは,「イデーから牧歌へ』に先立っ3年前の1952年7月に,自ら編集長を勤める『ダーゲンス・ニューヘテル』紙に3回にわたり論説を掲載している。「デモクラシー・完成か崩壊か」「成功せるデモクラシー」「安定し,かっ活力あるデモクラシーは?」の3編である。ティングステーンによれば,これらは何れも,スウェーデンを筆頭にデモクラシーという政治体制の実現に成功した他の諸国においては,「強力な価値共同体」(den starka vardegemenskapen)が成立しており,もはや「イデオロギーや価値判断の問題をめぐる政党間のさまざまな対立は存在しなくなった,あるいは無意味になった」ことを証明しようとするものであった①。そして,このように,強力で統一的な価値共同体を構成するデモクラシー国家においては,
政党間のイデオロギーや価値判断をめぐる対立関係はもはやその存立根拠を喪失したという見解を,さらにラディカルに「イデオロギーの死」の理念まで凝縮させ,そこに明確にデモクラシーの成就・実現を認識する作業が行われるれるのが,上記『イデーから牧歌へ一成功せるデモクラシー一』である。
  この著作の中で,ティングステーンは,サブタイトルの呼称,「成功せるデモクラシー」(den lyckliga demokratien)を,さらに「大成功のデモクラシー」(den framganglika demokratien),「めでたいデモクラシー」(den lyckosamma demokratien),「調和的なデモクラシー」(den harmoniska demokratien)といったふうにも呼んでいるが②,彼によれば,これらはすべて本質的に「政治的見解間の根本的な対立がミニマムにまで縮小された国のデモクラシー」の謂であって,このことが最もラディカルな言葉で表現されたものこそ,「イデオロギーが死滅するときにのみデモクラシーは生きることができる」③なるテーゼに他ならない。かくて,「完成されたデモクラシー」と「イデオロギーの死」とはまさしく解離不可能な相関概念なのであるが,以下ティングステーンの主張する両概念のこのような緊密な相即・相関性をより精密に確認してゆくことにする。
  『イデーから牧歌へ』という表題によって,ティングステーンが,「長期間にわたる組織化・高い経済水準・かなりの均質性を誇る西側諸国」④ に共通の発展路線とその特質を暗示しようとしているのは明らかである。そして,国家形成に関わるこのような共通の路線と特質こそ「調和的デモクラシー」であって,ティングステーンはこれを実現した具体的な西側諸国として,ヨーロッパではスウェーデン・デンマーク・ノルウェーの北欧3国の他,イギリス・オランダ・ベルギー・スイスを挙げ,ヨーロッパの外ではカナダ,オーストラリア・ニュージランド,さらに人種問題によって「一般的なイデオロギーの均衡」が破られている負い目はあるものの,アメリカ合衆国もそれに数える。南アメリカではウルガイとチリが算入されるが,アジア・アフリ'カ
ではイスラエル以外この種のデモクラシーはほとんど実現しておらず,特に後者の場合国家としての組織を一応整えながらもらも,一党独裁傾向が強いことを指摘している。1937年刊行の『デモクラシーの勝利と危機』において日本に深い関心を示したティングステーンが,67年のこの時点で日本のデモクラシーをどのように把握していたかが不明なのは何としても残念である(本稿執筆後かなり経ってティングステーには敗戦後の日本の探訪記が存在することが分かった。この問題についてはその探訪記から若干の知見が得られるかもしれないが、いまだ果たし終えていない)。
  ティングステーンにとっても,「国民統治の成功と発展の究極の結果」としての「調和的デモクラシー」が,世界地政学的に見て,いまだ「例外的現象」であることは否定しえないが,スカンディナヴィア諸国が他の国に先駆けてとっくにこのような「政治における一般的な緊張緩和状態」に到達しえた本来的理由として,彼は,これらの国々の高い生活水準と国籍・言語・宗教の問題におけるほとんど例を見ない均質性を挙げる。「民族的乃至言語的違いは現実的にも観念的にも存在しない。その結果,多くの福祉デモクラシー国においては統一性を阻害し,ある場合には容易ならざる困難の原因ともなる衝突や問題が脱落することになる… … スカンディナヴィアでは宗教の違いも無意味である。圧倒的多数が国教会乃至国民教会に属すると同時に,この種の事柄に対する無関心が他のいかなる国にもまして広く蔓延している」⑤。確かに,プロテスタントとカトリックとの不和に典型的に見られるように,世界のいたるところに政治的影響の避けられない根深い対立がある。だが,ティングステーンは,今世紀初頭なおさまざまな対立が深刻であったにもかかわらず,デモクラシーへの政治的変革を理想的な仕方で達成した母国スウェーデンの場合を念頭に置きつつ,「緊張の緩和されたデモクラシー国家」においては,相互に敵対しあう壮大なイデオロギー体系のごときは本質的にその意味を失い,かつての論争問題の多くにおいて「一つの共通の見方・重要な価値共同体」によって取って代られると主張する。この種の論争問題として,ティングステーンは,なかんずく,デモクラシー・国家防衛・教会問題・禁酒問題・社会政策・経済生活における国家の役割と関連する諸問題を挙げる。そして,これらの問題に取り組む姿勢において政党間にいまなお「ニュアンスの違い」のあることは否定しえないものの,何れの問題への対応をめぐっても,その総合的な性格は「普遍的な諸々のイデーの融合」という意味での「脱イデオロギー化」(avideologiesering),まさに「イデオロギーの死」というタームによって表現しうるとするのが,ティングステーンの基本的見解である⑥。
  『デモクラシーの問題』の言辞を部分的にはそのまま利用しつつ,『イデーから牧歌へ』ではこのように述べられている。「デモクラシー・防衛・社会改革主義が合い言葉として設定されうる。それらは超イデオロギーの勝利の核心を突いている。富の再分配ではなく生産増大が,あらゆる国民階層の福祉増大の中心的手段と見なされる。国家は計画的・指導的に介入すべきだが,生産活動は,本質的に,限界と条件を設定した上で私的企業に委託されるべきである。完全な平等は可能でもなく,決して望ましくもないが,さらなる平等化は努力に値するものである… …高度の安定した雇用は確保せられるべきだが,インフレは食い止められるべきである。幼児・老人・病人・失業者は,個人の環境如何にかかわらず,それなりの生活水準が保証されるべきで
ある。国家はこれらすべての目標が達成されるように留意しなければならない」⑦。
  つまり,現代のデモクラシー国家においては,このような目標を含む広範な社会福祉政策は,デモクラシーを標榜する政党にとってはもちろん,大多数の国民にとってもまさに「イデオロギー」を超越した共通の目標・共通の価値となっているのである。したがって,このような「相対的合意」の上に構築されている現代西側のデモクラシー国家は以前よりもはるかに安定と堅固さを得ており,政党にしても以前のように「イデオロギーを宣伝する世界観の党」⑧としては登場しないのである。政党の拠って立つ基盤としての保守主義・自由主義・社会主義といった各イデオロギー間には,もはや「和解不可能な衝突を触発するような相違」は存在しない。ティングステーンによれば,今日のデモクラシー諸国の政党に共通する特質は,独自の見解を強調することによって自らの存在を正当化しようとする本来の欲望よりも,根本的な争いを収縮させるような共通の価値目標を設定する方向であるという。そして,このように価値の共有を目標として設定することが意味するのは,ティングステーンにとっては,まさしくイデオロギーの重要性の減少,その終焉と死への方向ということなのである。
  ティングステーンは,先に引用した「イデオ,ロギーが死滅したときにのみモクラシーは生きることができる」という事態を,個人の場合野心や良心の呵責・競争欲が内なる不動心に屈するときにのみ「細やかな幸福」が得られるのに似ているとして,デモクラシーという「調和の牧歌」(harmoniens idyll)が「戦いの触発」と和解しうると考えるのは「根拠1なきユートピズム」であると考えている。本来であれば,デモクラシーといえども,政治的にアクティヴたりうる可能性のみならず,政治生活に実際に参加しうる可能性を含むべきであろうが,ティングステーンはこのような立場は取らないのである。B.O,ボストレームが,「確かにティングステーンも,他の民主主義者同様,ある程度の政治的な関与と知識は選出された代議員の監視が機能するための必要条件だと考えるが,包括的な政治参加と活動はティングステーン的デモクラシー概念には入ってこない」⑨,と語る所以である。冒頭で触れたように,一見極めて逆説的な主張ながら,積極的な政治参加が危機の兆候たりうるというティングステーンの見方,さらに「デモクラシーは大衆の側からの恒常的な活動を意味しない」⑩,という彼の新たな発言も,ボストレームの解釈の正当性を裏付けていよう。・
何れにせよ,ティングステーンの判断によれば,「イデオロギーと個別的な価値判断の消失」,そして「社会福祉政策」に集約される「価値共同体の拡大」は,それと関連した究極の現象としての「神の消失乃至稀薄化」ω)同様,第二次世界大戦後のデモクラシー国家に共通な中心的政治動向となったものである。デモクラシーという政治形態の合い言葉は,あくまで「イデオロギーの死」に他ならないのである。
  以上のごとき考察の後,ティングステーンの「イデオロギーの死」という命題を改めて整理してみると,そには二つの基本的テーゼが含まれていることが判明する。一つは,文字通りイデオロギーは死滅した,というテーゼである。そして,今一つのテーゼは,この「イデオロギーの死」と連繋して新しい次元が生起したことを強調している。そして,この新たな次元に対してティングステーンが付与する呼称が「超イデオロギー」に他ならない。したがって,ティングステーンの著作活動における概念生成の時期という点では,「超イデオロギー」の概念は明らかに「イデオロギーの死」に先行しているものの,デモクラシー実現の論理的図式からすればその反対であって,「イデオロギーの死」から「超イデオロギー」への方向を取ることになる。
以下,われわれは先ず第一のテーゼを再吟味した上で,さらに第二のテーゼに向かうことにしよう。
  「50年前(1916年)には種々の対立が大きかった。イデオロギー体系はとっくにその鋭さ・新鮮さを失ってはいたが,いまだに1800年代の偉大な欠陥思想家によって鼓舞された視点を操っていた」⑫。この章句によってティングステーンは死滅したイデオロギー上の衝突を述べているわけであるが,「1800年代の偉大な欠陥思想家」という表現でティングステーンが指しているのはベンサム,J.S,ミル,H.スペンサー,ヘーゲル,マルクスなどであり,また1910年から20年にかけてスウェーデンに生じたイデオロギー論争において指導的な役割を演じた「J.ブランティングと一連の若い社会の敵」のことが言われているのである。そして,彼らによって動機づけられたイデオロギーの衝突がいまや生命を絶たれたというのである。この死は,1800年代に成立したイデオロギーが,少なくともティングステーンの挙げる14ケ国においては(79頁参照),もはや政治的立場に対して案内役を果たしていないということを意味する。このように,かっては激しく衝突し合いながら,いまや生き絶えたイデオロギー論争のモティーフとしてティングステーンは,『イデーから牧歌へ』では,特にスウェーデンの状況を念頭に置いて,先に項目的に挙げたように5つのテーマとして掲げている⑬。
  1.「デモクラシー」:少なくとも1918年以前は普通選挙権に対して,自由党は賛成であったが,保守党は頑強に反対した。社会民主党はもとよりデモクラシーを肯定したものの,それが社会主義に到達するための単なる手段のか,それとも目標それ自体なのかをめぐっては合意は成立しなかった。婦人選挙権や王政の存続についても彼らの意見は分かれ,ストライキ権・組合権のごときデモクラシーと結びついた市民的自由についても見解は分れた。
  2.「国家と防衛」:保守党は国家の統一と防衛を唯一の重大課題として把握し,政党形成・政党支配に対して批判的であった。逆に,社会民主党は基本的に反国家的であり,「党内の強行派,時には大多数が一切の防衛を拒否した」。「プロレタリアートは祖国を持たない」が,彼らの合い言葉であった。
  3.「社会化と社会政策」:マルクス主義の色彩の強い社会民主党は生産手段の集合化を主張したが,他の諸党はこの考え方に反対し,私的所有権を生産向上にとって最善と見なした。さらに社会政策・累進課税・失業問題に対する国家の介入権についても政党間には差異があった。
  4.「教会と宗教」:保守主義者は国教会体制を擁護し,社会民主主義者と自由主義者はこの体制の反対者であった。
  5.「禁酒問題」:特殊な性格の有してはいるが,北欧諸国やアメリカ合衆国では解決の方策をめぐって政党間のイデオロギーの対立を鮮明にしている問題である。
  ティングステーンによれば,1800年代の「欠陥思想家」に指導されっっ,1910年以降政党間のイオロギー衝突の契機となった主要なテーマは以上の通りであるが,それでは1960年代にそれまで政治論争の種であった各種イデオロギーが終息を迎えたとティングステーンが判断する根拠は何であろうか。それについて彼の挙げる理由を整理すれば,ほぼ7つに総括しうるであろう⑭。
  1.デモクラシーという政治形態の成立当初,この国民統治に対する要求の背後には和解不可能な対立的な理想があった。国民の要請は「妥協と協定によって満たすべし」という理想と,彼らを「イデー論争によって啓発・熱中させるべし」という理想である。いわば「調和の牧歌と戦いの触発とを同時に夢想した」のである。しかしながら,デモクラシーが前者の方向で理想を実現したとき,後者の理想を支える情熱は冷却したのである。つまり,デモクラシーが成功を収めたことで戦闘意欲が消失し,同時にイデオロギーも死期を迎えたのである。
  2.「イデオロギーの死」の第二の原因をティングステーンは第二次世界大戦中の経験に見いだす。この期間頂点に達したイデオロギー上の対立と緊張によって経済危機がもたらされ,政党間の戦いの激しさゆえに国民統治は弱体化してしまったという経緯が「脱イデオロギー」への動きを準備したのである。「戦時中は戦後期の緊張緩和を準備する試練と忍耐の時代となった」,と言われる所以である。
  3.東欧における独裁政権の出現も「イデオロギーの死」のさらなる原因であった。これからの脅威が,他のヨーロッパ諸国の内部で,政治的対立の減少と政治的統一による自己防衛への志向を高めたと,ティングステーンは考えている。
  4.デモクラシーという政治形態の完成がイデオロギー上のさまざまな対立の解消に導いたのと同じように,ティングステ一ンの主張によれば,物質的な平等化をもたらした福祉国家の実現も,結果的には,「イデオロギーの死」に導いたという。彼は言う。「何も彼もがある程度満たされ,自分の現状に憶想をもらすのは政治行動に無縁な少数の者たちだけといった場合,大きくて危険な衝突やそれに対応するイデオロギーや価値破壊などはとうてい考えられない」。
  5.以上の他に,さらに「イデオロギーの死」の原因としてティングステーンが挙げるのは,世界各国でさまさざまなイデオロギーの実現がもたらした,「かってないほどイデオロギー体系への信頼を奪った」否定的経験であった。「われわれは社会化路線ζ 同様に極端な国粋主毒が出現するのを目の当たりにし,幾つかの国では際立って自由主義的なイデーの破滅的な結果を迎えたことを目撃した」のである。
  6.イデオロギー自体の分析もその死刑判決に力を貸したとティングステーンは言う。「知識人の間では最近一般的な見解もそれらに代わる神話も権威を失ってしまった。体系は批判によってバラバラに解体され;プラグマティックな常識的な考え方に後退してしまつ・た」。ティングステーン自身もこの過程に大きく関わったことは言うまでもない。
  7.「イデオロギーの死」と密接する,テイングステーンのいわゆる「窒極の一般現象」としては二つのものが挙げられる。「神」と「戦争」である。「神や戦争がイデオロギーの構成上無用になった」のである。換言すれば,政治論争の場から神が消失し,戦争を徹底的に放逐したことが「イデオロギーの均衡化」の前提を創造したのである。
  以上、ティングステーンが1800年代の「欠陥思想家」の影響下デモクラシー論争の際中心的モティーフとなったと見なす5個のテーマと,さらに1960年代に入ってこれらをめぐってのイデオロギー間の衝突の終息の原因として挙げた7っの根拠とを比較的詳細に辿った。ティングステーンにおける「脱イデオロギー」「安定性」「水平化」「緊張緩和」といった独自のタームはすべて,このような「イデオロギーの死」によって新たな「超イデオロギー」の次元,「調和的デモクラシー」が生成することを暗示する言葉でもある。それではティングステーンはこの「超イデオロギー」の次元の問題をより厳密にどのように把握しているであろうか?
 注 
①Tingsten,H.:Fran ideer till idyll.Den lyckliga demokratien,Sthlm.1967,s.5.
『Dagens Nyheter』紙掲載のティングステーンの論説の日付と原タイトルは次の通り、
27/7 Demokratin:fullandningeller forfal1,29/7Den lyckade demokratin,
31/7En stabll och vitaldemokrati?
戦後スウェーデンでは「デモクラシー論争」が1945年前後,50年代,60年代の終り,そして74年以降の四
つの時期にわたって生起した。第一期のそれは「計画経済・社会化・政治的デモクラシーを統一しう
  る可能性」をあぐって,特にティングステーンと社会民主党の大立者ヴィグフォルシュ
(Wiforss,Ernst)との間で交わされた論争が中心であり,そして第二期論争のきっかけとなったのが,上
記ティングステーンの論説であり,これにスウェーデンの政治学者たち多数が反論するという形で論争は
経過した。第三期論争は,社会のいろんな領域での権力集中・官僚主義化傾向が中心的テーマであった。
  しかし,原理論争の性格が強く,より根本的なデモクラシー問題をあぐって広範な大衆を巻き込んで行わ  れたのは第四期の論争であり,その際中心的なテーマとなったのがティングステーンの「超イデオロギ   ー」としてのデモクラシー論であった。なお,この第四期論争の資料集とも言うべきものが論争の主役の  一人ニルス・エルヴァンデルによって刊行されているが(Elvander,Nils   
  (red.):Demokrati och socialism,Sthlml975),この論争の考察は筆者o,抱える今後の課題の一つ  である。
  ②ibid.S.5,8,18.
  ③ibid.s.18.
  ④ibid.s.8.
  ⑤ibid.s.9.
  ⑥ibid.S.14.
  ⑦ibid.S.16,
  ⑧Tingsten:Demokratiens problem,'s,154.岡野訳「現代デモクラシーの諸問題」203
  ⑨Bostrm,B.0.:Samtal om demokrati,s.150.
  ⑩(10)Tingsten,H.:Argument,Sthlm.1948,s.246.
 ⑪ibid.:Fran ideer till idyl],s.19.
  ⑫ibid.$。1α
  ⑬ibid.s,11-13.
  ⑭ibid.S.18-20.


  4.「超イデオロギー」
    ー「価値共同体」・「福祉国家」・「覆う影」一

  この「超イデオロギ「」というイデーの「勝利の核心」をティングステーはすでに引用した三つのイデー・「合い言葉」によって表現する。「デモク社会改革主義」である。先ずティングステーンは,デモクラ
シーという政治体制については主要な政党間にほぼ完全な合意が成立していることを確認する。デモクラシーが最高の論争問題の的であった時代はすでに過去のものとなり,デモクラツーの価値についてはあらゆる政党が一共産主義者に対してはティングステーンは留保するが一見解の一致を形成しているのである。国民の連帯と防衛についての見方にも同じことが妥当する。ティングステーンはスウェーデンが防衛に値する国家であるとする見方には全政党に異論がないと証言する。国家には特定な団体のために介入する権利と義務があるというのも,すべての政党から合意を得ている重要な社会政策である。総じて,国家は広範な活動領域を有するという見方は,ティングステーンが「超イデオロギー」の核心と見なす点であって,「超イデオロギー」の
原則に則っても私的所有権は保持されるべきことを容認する。しかし,失業やインフレの抑制という仕方での共通の目標,万人にとっての教育の可能性,さまざまな階層間の経済的平等が達成せられるために必要とあれば,国家は介入し,計画し,指導すべきだというのが,「超イデオロギー」の基本的立場なのである。
  そして,このような「超イデオロギー」の次元に成立する新たな政治体制こそ,統治の基本原理を「政治から行政への移行」(en overgang fran politik till forvaltung)に置く真の意味でのデモクラシー,ティングステーン固有のタームを用いれば,まさしく「成功せるデモクラシー」「調和的デモクラシー」に他ならない。このようなデモクラシーの本質をティングステーンは,「スウェーデン・デモクラシーの安定性と活力」』と『イデーから牧歌へ』の両方において,あたかも彼の不動の確信を物語るかめごとく,まったく同一の表現を用いて述べている。すでに引用した部分を含むが,改めてその全体を示せば次の通りである。「その本質は,一種の共通のプログラムの受容によってさまざまな見解や価値づけの意味が強烈に縮小され一目的と手段との明瞭な区別に関する幻想に赴くことなく、一 政治から行政への,原理原則からティクニークへの発展を語ることができるということである… … 広範な国家活動の結果が,この共同体のケルンプンクトである」①。
  ここには「超イデオロギー」一「成功せるデモクラシー」という政治体制の根本的な特質が輪郭的に示されている。つまり,この政治体制の特性は「一種の共通のプログラムの受容」にあり,それによつで必然的に従来イデオロギー衝突の根拠・原因となった「さまざまな見解や価値づけの意味」が「縮小」され,結局は「死」に追い込まれると言われているのである。このことは,前述の「デモクラシー・防衛・社会改革主義」を共通のプログラムを遂行しようとする「超イデオロギー」の立場は,そのことによって同時にまた「さまざまな見解や価値づけ」をも超出する次元に成り立つことを告知していることになる。「どの手法を選択するかは一つの見解あるいは少なくともさまざまな前提や価値づけの体系によって動機が与えられるものと考え
られていた一まさにこれが政治であった」②の一節は,彼が過去のイデオロギー中心の政治を矛盾・対立し合う多様な「見解」や「価値づけ」に基づく政治と見なしており,したがって彼にとっては「イデオロギー」と「価値づけ」とは同義的概念であり,逆に「イデオロギーの死」は広義においては「さまざまな価値づけの死」を包含しているであって,「超イデオロギー」はまさに「超一価値づけ」の意味でもなければならないことを暗示していると言わなければならない。
  だが,それならば,「超イデオロギー」の次元ではいかなる「価値づけ」も容認されないのであろうか?したがって,「超イデオロギー」としての「成功せるデモクラシー」「調和的デモクラシー」においては一切の「価値づけ」は払拭されるのであろうか?もとより,否,である。実はディングステーンは,いろんなところで,「超イデオロギー」が一連の共通の「価値づけ」から成立し,その意味においてまさに新たな「価値共同体」を構成するものであることを了解しているのである。例えば,『イデーから牧歌へ』では,「超イデオロギー」によって特徴づけられる「調和的なデモクラシー」というのは,本質的に「イデオロギーの時代以前,対立的な価値づけの時代以前の政治状態に立ち返ったことを意味すると述べたのに続いて,さらに彼は次のように言葉を続けている。「長期にわたる断絶の時代の後,国家と社会を根本的に変えた変革と革命の後,多数の国で(価値)共同体が強力になり,政党の存続と争いにもかかわらず,行動は同じ規範によって規定されるようになった。政治から行政へ立ち帰ったのである。デモクラシーの超イデオロギーは全領域において統一的なイデーによって構築されており,イデーと価値づけの問題については,怒鳴り合う声がシュプレヒコールに変わった。成功せるデモクラシーの多くの国では,共産党すらためらいながらもこの(価値)共同体に参加することによって,連帯の強さが際立っている」③。ここで,「成功せるデモクラシー」「調和的デモクラシー」の本
質としての「超イデオロギー」の立場が,多様なイデオロギー闘争の根源となった低次の「価値づけ」の次元を超出しながらも,それ自体「同じ規範」「統一的なイデー」に基づく高次の「価値づけ」によって,つまり政党のイデオロギー的相違を超えて,つまり主要政党のすべてに共通な一定の「価値づけ」に基づく新たな「価値共同体」を積極的に構築するものであることを証言しようとしているのは明らかである。
  それでは,「デモクラシー・防衛・社会改革政策」という三つのイデーを主要政党共通のプログラムとしっっ,新たに各政党の合意と連帯の上に成り立つという意味でのこの超イデオロギr的・デモグラティ・ックな「価値共同体」として,ティングステーンは具体的にどのようなものを想定しているのであろうか?
  現代スウェーデンにおけるデモクラシー論争を取り上げた著作において,独自の視点からティングステーンのデモクラシー論を分析したB.0.ポストレームは,ティングステーンのデモクラシー概念の特質の一つが「価値共同体」のイデーにあることに留意し,こんなふうに述べている。「価値共同体という確かな尺度をティングステーンはデモクラシー存在の必要不可欠の制約と見なしている。ティングステーンがこの価値共同体を完全にデモクラシーの前提と考えていることは疑いない。しかし,この価値共同体の性格はいささか不明瞭である」ω。だが,ボストレームによれば,この「価値共同体」という表現には特別重要なイデーとしては次のごときものが含まれているという。「社会集団」「集団共同体」とその「客観的性格」,および「共通の価
値づけ」というデモクラシー固有の議決形式の採用に対する同意,さらに何が重要な政治内容なのかを見る見方に対する同意,である。そして,これら二つの同意は,デモクラシー成立の「最低条件」と見なされなければならない。ボストレームの見解を総括すれば,二つの同意を必要不可欠の制約として成立する客観的な社会共同体,つまりティングステーンの「価値共同体」をボストレームはほぼこのように把握していると言って差支えないであろう。そして,ボストレームは続いてこんな問いを発している。「このような価値共同体が存在するなら,デモクラシーが成立するためには,この他に物質的な価値共同体が必要とされるのではないのか?」(5)。換言すれば,ここでボストレームは,「物質的な価値共同体」(den materiella vardegemenskapen)
という「デモクラシー成立に対するこの最大限のギャランティ」が存在しないなら,政治的決議に対する国民の合意は決して十分には得られないであろうと主張しているのである。そして,同時に,「デモクラシーは,ティングステーンによれば,少数派への配慮を前提としているが, .彼が少数者への配慮がデモクラシーの一部と考えているのか,それともその前提と考えているのかを決定するのは,ここでは価値共同体の問題よりももっと難しい」⑥というポストレームの所見は,ティングステーン自身にも物質的な価値共同体」というデモクラシーに対する「最大のギャランティ」の問題が不明瞭に留まっていると解釈していることを示唆している。
しかし,私見によれば,.この問題に対するティングステーンの応答はむしろ自明的なものとして彼のデモクラシー論の中に発見しうる。例えば,『イデーから牧歌へ』においてこのように言われている。「調和的デモクラシーは本質的に福祉国家の政治的な形態と見なすことができる。しかし,この相互関係は完全ではない。福祉国家が含む富裕・安全・計画化・社会改革政策という尺度なくして幸福なデモクラシーに出会うことはないが,幸福なデモクラシーとは呼べない福祉国家はさまざまな仕方で存在している… … もっとも,政治的形態と経済一社会的結果乃至原則との分離は原則として不可能である」⑦。もちろん「福祉」(valfard)や「福祉国家」(valfardsstat)に関するティングステーンの本格的な見解を質すためには別個の作業が必要では
あるが,この引用文から見るかぎり,ティングステーンが,その基本的な「尺度」あるいはイデーとして「富裕・安全・計画化・社会改革政策」を含む「福祉国家」の概念を上位の類概念と見なし,「調和的デモクラシー」をそれに包摂される下位の種概念の一つとして把握していることが分かる。そして,この種概念にはさらに「調和的デモクラシー」即ち政治的形態のデモクラシーの同位概念として,ティングステーンのいわゆる,「経済的デモクラシー」がさらに加わると考えられていることが推察しえよう。かくて,この「経済的デモクラシー」こそ,ボストレームの言う客観的・社会的共同体の義での「価値共同体」に対する「最大限のギャランティ」たる「物質的な価値共同体」に他ならないであろう。こういつた考察からわれわれは,ティングステーンが「価値共同体」と称するものを,結論的に,「政治的デモクラシー」(den politiska demokratin)と「経済的デモクラシー」(den ekonomiska demokratin)の二形態を同位概念的に包摂する「福祉国家」として発見・規定したいと思う。
  翻って言えば,ティングステーンにとって最も厳密な意味における「福祉国家」とは,従来の伝統的な価値づけをめぐって政党間に生起した激しいイデオロギー的対立と抗争が死滅し,改めてそれを超えた次元において「富裕・安全・計画化・社会改:革政策」という基本理念への超党派的合意と価値づけに基づきっつ,政治的・経済的な二つのデモクラシーを包摂する新たな価値共同体を意味するのである。その浩潮な著作活動にもかかわらずティングステーンには独立した福祉論・福祉国家論ともいうべきものは存在しないが,彼の全著述活動の重要な意義の一端は,政治学者・ジャーナリストとしての立場から,このような真の意味での「福祉国家」成立の超イデオロギー的根拠を徹底的に解明しようとした営為に見出だすことができよう。このような
解釈を根拠づけうる見解がすでに「デモクラシーの問題』にも登場していることを推測せしめるのが,ティングステーンの以下の陳述である。「両大戦間の時期に国民統治を陥れたごとき経済的・政治的危機に対する恐怖は,デモクラ.シーに対する脅威として登場するコミゴニズム体制との競争と相侯って,総じて成功を納めたデモクラシー内部でも,生存しうるためには,さまざまな領域内の対立を制限するように自覚的に努力するためには,デモクラシーは連帯と価値共同体を要求することを認識せしあた。デモクラシーは万人の受容する超イデオロギーとなった。国家防衛・包括的な社会政策と相当な程度の国家による計画化も,同様に,デモクラシー諸政党の活動の共通の出発点となった。多くの現代デモクラシーにおいては,福祉国家が大多数の者にとって目標となったのである」⑧。
  かくて,ここから「成功せるデモクラシー」「調和的デモクラシー」と言われる場合,既述のごとく,それは一面ではナチズム・ファシズム・コミュニズムによって脅かされることのない強力な価値共同体を有する政治体制を意味するとともに,このような政治体制は最も厳密な意味では「福祉国家」の形態としてのみ実現しうることを告知しているのそある。だが,『イデーから牧歌へ一成功せるデモクラシー』という書名によっても示唆されるようティングステーンがこのような「福祉国家」として成就さるべき「調和的デモクラシー」を,対立的なイデオロギー的価値づけの時代以前の政治状態への,つまり「牧歌」(idyll)の状態への回帰として把握するという姿勢は,彼のデモクラシー論のいま一つの重大な側面を物語っている。それは「調和的デモクラシー」の完成がイデオロギー国家から福祉国家への移行を絶対の制約とするという第一義的な側面の他に,ティングステーンがデモクラシー国家・福祉国家をめぐる現代の政治状況の中に「牧歌を覆う影」(skuggor over idyllen)の存在を認知しているという側面である。この「影」の部分に敢えて一節を費やして精密な考察を加えている点が,『イデーから牧歌へ』という著作をティングステーンの他の著作から決定的に異ならしめる特質である。そして,ティングステーンは現代デモクラシーの福祉国家を覆う「影」として挙げるのは,なかんずく経済的不平等・民族・国籍・社会階層間の差別・世界の福祉国家への転換による安全な国際的秩序,これら3問題に対する真の解決の不在である⑨。
①Tingsten,H.:Demokratiens problem,p.154.岡野訳,『現代デモクラシーの諸問題』203-4頁。    Stability and vitality in Swedish Democracy,p.147. Fran ideer till idyll,s.16
②Tingsten,H.:Fran ideer till idyll,s.42.
③ibid.s.42.
④Bostr6m,B.0.:Samtal om democrati,s.152.
⑤ibid.s.153.
⑥ibid.s.153.
⑦Tingsten,H.:Fran ideer till idyll,s.43.
⑧ibid.:Demokratiens problem,s.153.岡野訳,202頁。
⑨ibid.:Fran ideer till idyll..ss.48-54,

  *以上文中のスウェーデン語アルファベットの表記には、筆者のPC操作上の未熟さによる不備がある。
   御容赦をお願いしたい。

   (明治大学「政経論叢」第67巻 第1・2号 1998年11月)