筆 者はこれまで、キェルケゴール・北欧神話・ウプサラ学派の価値ニヒリスムの三者を主要な研究対象としてきたが、それを基盤としてさらに筆者の関心は、現代 世界の抱える緊急の思想的課題 - 宗教・医療・環境の問題 - を解決する方向を、北欧思想圏の哲学的思惟を通して探るという目論見へ進んでいった。そ して、極めて貧しい試論には留まるが、それぞれの対象・主題について研究成果を発表することができた。しかし、現在筆者の願望は、従来の考察を一層ラディ カルに深めるとともに、そこからさらに浮かび上がってくる北欧固有の諸問題に対して総合的な検討を加え、その成果を体系的に「北欧学」という新たな学問に 結実させたいという方向に向かっている。筆者に残された時間は多くはないが、それへの積極的な挑戦が、ライフワークの主たる部分を占めることになる。
この場では、筆者がこれまで上梓した著作と翻訳を、研究業績として紹介すると同時に、続いて筆者がそれぞれの機会に発表してきた比較的短い論考を用いて、 必ずしも全体が体系的に組織されているわけではないが、現在筆者の念頭にあるかぎりでの「北欧学」なるものの構想内容と、想定される具体的な主題につい て、述べてみたいと思う。

2008/01/05

「北欧学」の主題―[Ⅰ]ゲルマン異教からキリスト教への「改宗」

[Ⅰ]

  北欧精神史乃至北欧思想史、さらに限定的な意味で言えば北欧教会史において、文字通り「エポック・メイキングな」意味を持つ最重要課題の一つに、古代ゲルマン異教からキリスト教への転換、いわゆる「改宗」と言われる宗教的・社会的乃至政治的現象があるが、筆者の構想する「北欧学」においても、当然取り上げられるべき主題の内最たるものに属すると見なして差し支えない。問題のスケールの大きさから見て、限られたスペースで簡単に処理できるような小さなテーマではないが、以下では特にこの問題に関するエキスパート若干名の所説を参照しながら、暫定的にこの主題に接近してゆくことにする。

  一般に、質を異にする宗教間の移行、端的に「改宗」convelsio, omvendelse)と言われる現象の場合、成立の次元が個人的か民族的かの区別はともかく、そこに見出だされるのは、基本的に主体的・実存的な行為としての「改宗」であるはずである。そのかぎり、この問題は、主体的・実存的視点から取り上げられなければならないのは当然であるが、小論というスペース上の問題のみならず、時代的背景及び資料上の制約からも,個人における主体的・実存的行為としての「改宗」の考察はどうしても留保せざるをえず、結局筆者としてはここでは主たる関心対象を、結局、11世紀前後における北方ゲルマン「民族」の改宗史の抱える問題に限定することになる。


  ここで「北欧民族」として想定しているのはなかんずくデンマーク、スウェーデン、ノルウェー、アイスランド四国に帰属する民族のことであるが、彼らのゲルマン宗教からキリスト教への改宗という歴史的事実に関して一つの指標を提供するのはアイスランドの場合である。というのも、この国では丁度1000年に全島大会Alltingにおいてキリスト教への改宗が法的に許可されるが、デンマークとノルウェーのキリスト教化はそれ以前、スウェーデンの場合はそれ以後に属するという仕方で、前後に約300年間の落差はあるものの、北欧四国の改宗はほぼこの時代に集中しており、このことが四つの北欧民族における改宗に共通する特質を付与する要因にもなっているのである。そして、彼らの改宗に共通するこの特質こそ、彼らの「比較思想的行為としての改宗」を決定的に特徴づけているものであり、それの発見と指摘が筆者の意図するところでもある。

[Ⅱ]

  そのために、筆者は先ず、アイスランドを中心とした改宗への「外的経過」を簡単に窺うことによって、外から見た北方ゲルマン民族における改宗の一般的特質をあぶり出してみることにする。スカンディナヴィア諸国のこのキリスト教化について、デンマーク考古学界の権威ヨハネス・ブレンステーズは、このように述べている。

  「(スカンディナヴィア諸国への)キリスト教の浸透は急速なものではなかった。ヴァイキング時代の始まる800年頃の北欧はまったくの異教世界で、デンマークの改宗までは約150年、ノルウェーとアイスランドでは約200年を要し、スゥーデンが完全にキリスト教化されるまでは300年以上が経過した。この穏やかな慈悲と苦難の宗教がヴァイキングをどのようにして征服することができたかを問うよりも、改宗にこれほど長時間を要したことの方にむしろ驚く理由がある。というのも一方は多彩な神々の王国ではあっても、実際にはそれほど強力ではなかったのに対し、もう一方はローマ教会の巨大な組織を背景に浸透の試みを不断に繰り返し、手始めに王や首長ら北欧社会の上層階級を懐柔するという巧妙な戦術を所有していたからである。だが、改宗にかなりの時間を要した理由とは、北欧古来の宗教に秘められていた力が、代々継承されてきた祭祀、つまり一年の歩みや生命の豊饒さや収穫と不可分に結び付いた祭祀形態の中に宿っていたことであろう。上層階級に対する改宗はほぼ順調に行ったが、この新しく強力な唯一神が社会に根付く過程で、それまでヴァイキングの現世生活の要求と存在を確かなものとし、あらゆる時代の経験を備えた古来の宗教の風俗習慣が侵害されようとした時、始めて事態は深刻となった。この領域における転向・改宗が実に長い歳月を必要としなければならなかった」(1)

  スウェーデンの宗教史家フォルケ・ストレームも、ヴァイキング時代多数の北欧人が海外でキリスト教と直に接触し、新しい思想を携えて帰国したものの、全般的にはこの地域に定住していた農民人口が父祖伝来の信仰を頑固に固持するという仕方で、宗教と社会生活との間に存在する強い結び付きのために、当時の北欧においてはキリスト教は根本的に社会の下層階級の運動にはならず、この地のキリスト教伝道は、宗教や法秩序の支柱、つまり王や権力者に向かったところにその特質が存在することを指摘している(2)。そして、フォルケ・ストレームは、ブレンステーズの上記引用文において指摘する、豊かな時代的経験を有する古来の宗教の風俗習慣が侵害される基本的な場面として、社会全体にとって重要な意義を有する公的な祭祀の維持者(王・権力者)が、もはや自らの伝統的な祭式機能を発揮しなくなって、国民大衆が個別的に執り行なう屋敷内の祭祀が単独では埋めることができない宗教的な真空状態の発生ということを挙げている。インターナショナルな志向性を有するキリスト教徒の王の権力と、村落に根付く古い宗教を奉ずる農民の勢力との間に、たとえ一時的に激烈な闘争があったり、ゲルマン異教からの反動が短期間成功を収めることがあったとしても、結果は始めから明らかであったのである。

  デンマークの著名な宗教史家ヴィルヘルム・グレンベックの、スカンディナヴィア諸国における改宗過程の特質に関する以下のごとき発言も、このような歴史的事情を踏まえてのことである。

  「(スカンディナヴィア諸国においては)全体として見ると、それほど深刻な格闘なしに行われた。このような精神革命が若干の抵抗を伴うのは当然のことであった。実際、オーラフ一世トリュグヴァソンOlav Trygvason 995 - 1000)や聖オーラフ二世Olav den Helige 1015 - 30のように改宗に熱心だった王と国民との間に、かなりの摩擦があったことが知られており、特に前者は乱暴な方法を用いたために、彼らの不満を相当掻き立て、この国の各地で大きな抵抗運動が発生した結果、あちこちで古い信仰への殉死者が出たのであった。しかし、南の方角から勝利を収めつつ突進してきた宗教については、厳密な意味での戦いについてはまったく問題にならなかった。その移行がどんなに容易に行われたか、その証しはアイスランドにおいて発見することができる」(3)

  特に以上デンマーク及びスウェーデンの代表的な三人の研究者ブレンステーズ、ストレーム、グレンベックの所論を総合してみると、

 1)オーラフ・トリュグヴァソン治下のノルウェーのように若干の場合は例外として、また新宗教勢力と旧宗教勢力との間で後者への殉教者の発生を交えた短期間若干の信仰闘争が発生したとしても、北欧の場合、アイスランドにおいて典型的に見られるように、ゲルマン異教からキリスト教への転換は自明的な仕方で比較的平穏裏に行われた。

  2)その反面、アイスランドの1000年を挟み、スカンディナヴィアの他の三国のキリスト教化が、その前後に300年という長期間を要した理由は、次の点にある。つまり、ローマ教会の懐柔策に嵌まって最初に改宗した王や首長といった権力者が、国民を啓蒙するという仕方でキリスト教化を謀ったものの、伝統社会を支えてきた異教の公的祭祀の主催者としての役割を放棄することによって、国民の間に一種の精神的な真空状態もたらした権力者にとっては、当の国民大衆の伝統と日常生活の中に深く織り込まれた伝統的な異教祭祀を、慈悲と苦難の新宗教へ一気に、かつ短期間に移行させることは不可能であったということである。しかし、北欧人にとっては、この移行・改宗の運動自体は、もはや避けられない必然的運命であった。

  ブレンステーズはまた、以上の事態を踏まえて、「全島民の同時改宗という、他に類例のないこの奇妙な方法自体、すでに島内的には改宗の機が熟していたことを証明している。古来の宗教は、アイスランドでは早くも無力化していた」、とも述べているが、これは、「社会生活と法と宗教との間の不可分な結びつきをめぐる洞察が、異教の運命を確かなものにすることになった」(フォルケ・ストレーム)、という意味に理解しなければならない。そして、このことはまた、アイスランドにおけるゲルマン異教からキリスト教への転回は、前後裁断的・二者択一的な決断の行為とは言い難く、むしろドイツの宗教史家アドルフ・ヘルテがその著『ゲルマン精神とキリスト教の遭遇』の中で提出している、「『エッダ』や『サガ』の故郷アイスランドでは、異教は原則的には排除され、改宗は遂行されたものの、改宗は国民にとってはもとより心の問題ではなく、所詮はまったくの外面的な事象にすぎず、異教に託されたこの留保の姿勢こそ、この島におけるキリスト教への移行を本質的に特徴づけるものである」(3)、という見解こそが、この北欧ゲルマン民族の改宗の真相を突いていると見なすことができよう。もっとも彼も、オーラフ・二世聖王が1016年に異教に対する一切の譲歩排除を命令して以後、漸次異教が消滅してゆき、アイスランド人の中にキリスト教的思惟と感情が根付いていったことを認めてはいる。

[Ⅲ]

  しかしながら、アイスランドにおける改宗のこのような特質を知る時、筆者としては、ドイツの著名なゲルマン宗教史学者ヴァルター・ベトケが提示した、以下のごとき主張に特別注目せざるをえないであろう。

  「当然、異教の抵抗力が、新しい信仰の受容に対して影響がないはずはなかった。スカンディナヴィア諸国では、ドイツの場合同様、キリスト教の容認にはさまざまな強制力が用いられ、かくて移行期間には<ゲルマン的ーキリスト教的シンクレティズム(混合主義)ein germanisch - christlicher Synkretismus)が展開されたのである。この<シンクレティズム>は確かに部分的にはその後克服されはしたが、しかしまた一部はさらに強化されて、結果的には<大規模なキリスト教のゲルマン化>をもたらすことになるのである。もしキリスト教の内面的獲得を問うのであれば、この混合-変形過程の在り方と範囲を確認することが重要になる」(5)

  アイスランドにおける改宗は、全島会議の議決に基づく政治的配慮の結果でもあったが、ベトケは、このような便宜的方策のみならず、ドイツ同様スカンディナヴィア諸国においても、ゲルマン異教徒の抵抗を押さえるために、彼らの改宗にさまざまな仕方で強制力が用いられたことが、結果的に「ゲルマン的要素とキリスト教的要素との混合形態」という意味での「シンクレティズム」が、古代北欧民族の改宗を特徴づけることになったと考えており、さらにこの「シンクレティズム」がある程度克服された後には、よりラディカルに「大規模なキリスト教のゲルマン化」が発生したと主張しているのであるが、ベトケのこのような所見は、北欧人における比較思想的行為としての改宗を考察しようとする筆者にとっては、極めて示唆に富む発言であり、以下における筆者の記述は、結局基本的には、ベトケの指摘する北欧人の改宗における「ゲルマン的なもの」と「キリスト教的なもの」との「シンクレティズム」、「キリスト教のゲルマン化」という「混合-変形過程」論の吟味に向かわざるをえないであろう。

[Ⅳ]                

  ベトケは、すでに指摘した「政治宗教」としてゲルマン宗教の理念がキリスト教に転換された結果、改宗に際してキリストが政治共同体の平和が託された民族の、国家の神として把握され、古いゲルマン異教に代わって政治的な自己主張のためにキリスト教が用いられるところに、このような「シンクレティズム」の発生原因を看取している。北欧に限定されず、ゲルマン世界全体に共通すると見なすこの現象を綿密に検証しつつ、彼はさらにこんなふうに考えている。本来はゲルマン異教の主神オージンOdinnWodan南ゲルマン民族])の別名「勝利の神、勝利の主」SiegesgottSiegesherrといった古い表象がキリストに移され、「このような勝利の神として賛美することによって、異教ゲルマン精神によるキリストの神話化と政治化とが結びついているのは歴然たる事実であって」(6)、「キリスト像の政治化と神話化の認識がまさしく改宗史にとっては最大の意義を有する」のである。なぜなら、「この認識が始めて文献資料の妥当な解読の前提となる」からである。かくて、ベトケによれば、本来は完全に区別されるべき「ゲルマン的-神話的地層」と「キリスト教的-神学的地層」でありながら(7)、前者が後者に移行・転換される仕方で両契機が共存するところに「シンクレティズム」のみならず、「キリスト教のゲルマン化」の現象が生起するのである。なお、その際ペトケは、改宗期の「ゲルマン初期キリスト教」の資料から「ゲルマン異教」への「逆推理」を行って、福音に対する素因をゲルマン人がすでに改宗前に所有しており、「異教信仰自体の中にキリスト教に到る素因の充足・完成」を見るような転倒行為を行ってはならないことを厳しく注意している。

  もっとも、ベトケは否定するのであるが、C.M.クサック女史は、ゲルマン民族改宗史に関する最新の文献でもある彼女のシドニー大学宗教学学位論文『ゲルマン民族の改宗』において、アイスランド人の初期キリスト教が、他のゲルマン民族のそれ同様「混合主義的」たる所以を、全島会議の結果として古い宗教が公的には差し止められたにもかかわらず、私的にはなお暫時生贄の慣習が守られた事実の中に指摘し、アイスランドに強力な中央集権が存在せず、また信仰箇条も教義も有しなかったというゲルマン異教の特性が、この宗教の残存とキリスト教のルーズな受容と解釈を可能ならしめたと見ている。なお、クサック女史は、このような「シンクレティズム」は、同時代のアイスランド民衆の中に発見しうるのみならず、さらにキリスト教徒としてスノリ・ストゥルルソン(Snorri Sturluson c.1179 - 1241)がゲルマン宗教に深い関心を寄せることによって成立した『新エッダ』(c.1220)が「シンクレティズム」の色彩を色濃く湛えているのは当然として、さらに『古エッダ』において生贄の樹にわれとわが身をぶら下げたオージンの像と十字架上のイエス像を重ね合わせ、さらに善と光の神バルドルとキリストとをダブらせることによって、そこにゲルマン異教における「シンクレティズム」の存在を見ようとする一部の研究者の試みに留意しつつも、これらのイメージの創造にキリスト教の影響があったとは考えられないとしてとして、こういった試みには懐疑的である。しかし、彼女によれば、中世ヨーロツパ文学中最高傑作と称えられる『古エッダ』冒頭の詩編『巫女の予言』Voluspaa=Volva + spaa[予言])の場合事情がまったく異なるという観点から、特にこの詩編の後半のラグナロクの場面に登場する宇宙の「破滅」と「復活」の場面を根拠として、異教的・ゲルマン的な価値観とキリスト教的価値観との混合という「シンクレティズム」が,さまざまなゲルマン民族における「改宗」の当然の帰結を実証していると主張している。

[Ⅴ]

  ゲルマン宗教研究史上最高の碩学とも呼ぶべきオランダのヤン・ドゥ・フリースは、『古代ゲルマン宗教史』において、「当時の北欧民族は純粋に異教的でもまたキリスト教的でもなかった。これら二つの信仰表象の結合が独自の混合形態に導いたことは間違いない」(8)、と語ることによって、ベトケやクサック同様北欧民族における改宗を「シンクレティズム」によって特徴づけている。この点をフリースは、改宗期には古い習慣はそれがキリスト教の要請に適用される場合にのみ維持できたのであり、異教的なものが漸次形式のみになって、内容はキリスト教的なものによって満たされるという「混合形態」という意味での「シンクレティズム」としても把握している。そして、この混合形態の特徴は、相互に異質的な要素が外面的に併存しているとか、キリスト教的なものが異教的な迷信にくっついているといったことにあるのではない。アクセントの置き方こそ違え、異教的なものとキリスト教的なものとが同一の感情を共有しているのである。換言すれば、11世紀を中心とした北欧ゲルマン民族の改宗を決定的に特徴づけている「シンクレティズム」とは、フリースの言う、まさに「キリスト教的な感情・表象と異教的な感情・表象との合奏」なのである。「(古代北欧の)人々は何千本かの糸によって古い世界と結ばれていた。前時代は一挙には止揚されなかったのである。異教時代の詩の伝統が可能だったのは、このような異教的心情の産物に対して敵対的に背を向けないで、逆に神話的伝承を守り続けたからであり、紛い物に対するキリスト教の憎悪も、過去の遺産に対する愛情を押え付けることができなかったのである。われわれの最も重要な資料が保持されているのは、このような心の広い寛大さのお陰である」(9)。

  しかしながら、フリースは、「シンクレティズム」の内実をこのように「キリスト教な感情・表象と異教的な感情・表象との合奏」という二つの宗教の調和的関係を意味するものと解する一方では、ベトケやクサックと異なり、『巫女の予言』の詩人に対しては、この「シンクレティズム」というタームを適用していないのである。それは、なかんずく「心の中でキリスト教と異教との葛藤が激しく荒れ狂った人間」(10)として把握しているからである。しかしながら、その内実を二つの宗教の調和関係として捉えるか葛藤関係として理解するかの違いこそあれ、この点の認識を前提としさえすれば、何れの場合に対しても「シンクレティズム」のカテゴリーを適用することは不可能ではないと考えられる。

[Ⅵ]

  デンマークの宗教史学者ウィルヘルム・グレンベックによれば、北欧人にとっては、「中世の歴史というのは、いかにしてキリスト教が定着し、ますます純粋な形を取っていったかの物語ではなく、北欧民族的要素と教会的要素とが一緒に働いて、精神生活及び宗教の有機的な全体像が前進して行く方向線を作り出した、その不断の成長の物語なのである」(11)。そして、このように「北欧民族的な要素」と「教会的要素」、「ゲルマン的なもの」と「キリスト教的なもの」との共存と共働によって誕生した精神的な全体像としての「新たな一つの宗教」であるという、グレンベックのこのような理解において、「シンクレティズム」概念の内包は、その最も深遠な意味を披瀝しているといってよいであろうが、このようなグレンベックの見方は、北欧神話中最大の雄編『巫女の予言』を、まさしく「ゲルマン的なもの」と「キリスト教的なもの」との「シンクレティズム」によって成立する「一つの新しいし宗教」を告知するものという画期的な見解の中に告知されている。彼は言う、「『巫女の予言』においてわれわれは、その思想が強烈な人格的色彩で染め上げられ、それゆえ疑いもなく同時代人の平均的思想を超出する一人の詩人に遭遇する。この詩はキリスト教と異教両者の外部にある新しい宗教の記念碑と称して然るべきである。この宗教は、最も本来的な意味では恐らくただ一人の人間の中でしか生命を保っていなかったものであろう」(12)。

  かくて、一般には「シンクレティズム」なるタームをもって特徴づけられるゲルマン異教からキリスト教への改宗が、個人の最も深刻な場合、まさに「心の中でキリスト教と異教との間の葛藤が荒れ狂った」一人の単独者の苦悩に満ちた「比較思想的行為」に他ならなかったことを証明したものこそ、教養高き異教神官と推定されている『巫女の予言』の作者に他ならないのである(13)。そして、この異教神官の主体的・実存的葛藤は、審美的なものと倫理-宗教的なもの間で激しく恐れ戦いた思想家キェルケゴールの苦闘によって継承されており、さらには世俗的立場と宗教的立場との狭間を彷徨する孤独な現代人の窮境の中にも、ありありと映し出されていると言えよう。

  なお、上記「改宗」の問題に続いて、北欧神話とキェルケゴールの関係、古代ゲルマン民族における「王権」、現代北欧におけるデモクラシー論、福祉論等を「北欧学」のさらなる主題として紹介する予定である。

1Bronsted, Johannes: VikingerneKbh. 1969, s.236f..

2Strom, Folke: Nordisk Hedendom. Tro och sed i forkristen tid, Goeteborg 1967, s. 262.

 (3Groenbech, Vilhelm: Die Germanen , in: Lehrbuch der Religionsgeschichte von Chantepie de    la Saussaye, Tuebingen 1976, S.81.

4Herte, Adolf: Die Begegnung des Germanentum mit dem Christentum, Paderborn 1935, S.42.

5Baetke, Walter: Die Aufname des Christentums durch die Germanen, Darmstadt, 1959, S.25.

6ibid. S.49.

7ibid. S. 51.

8Vries, Jan de: Altgermanische Religionsgeschichte, Bd. 2, Berlin 1970. S.429.

9ibid. S. 447.

10ibid. S. 444.

11Groenbech. op. cit. S.85.

12ibid. S. 90.

13『巫女の予言』については、拙著『北欧神話・宇宙論の基礎構造ー<巫 女の予言>の秘文を解くー』白凰社1994年を参照されたい

  (本稿は次の論考に若干の修正を施したものである。「北欧民族における比較思想的行為としての改宗―ゲルマン宗教からキリスト教へ」(『比較思想研究』第29[ 20036])